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中国に関連して生じた事実

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https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/7cc5e1ad373775c11668b88a748c64a6 政治的文化的側面を中心に年代順に採録。
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#毛沢東

大西広『西側民主主義』を拒否する中国 を読む

 大西広さんは京都大学から慶應義塾大学に移った研究者で、中国の政治制度に詳しい。すでに慶應も退職されて慶應大学名誉教授。取り上げる論文は『季刊経済理論』第59巻第4号、2023年1月、33-44に掲載されたもの。 中国が欧米型民主主義を取り入れないことを私は正しくないと考えるのだが大西さんは、この論文で、そうした中国の立場を肯定するロジックを書かれている。また中国の政治制度を弁護されて、それは多数決民主主義よりは良いものだとされる。今回、丁寧に読む時間があったので、大西

楊天石, 沈志華 中国史公開講座 upload in 2019-2020

楊天石*(1936-)(中国社会科学院)蒋介石日記和蒋介石其人 2019/10/01                      24小時大講堂(北京圖書館) 蒋介石は共産党の闘争土改に対して、孫中山の和平土改 双方贏改の方針を受け継いだが大陸では実行できなかった。このことが最終的に大陸を失う大きな原因になった。共産党の廃除私有制、階級闘争、暴力革命に対して、蒋介石は保護合理的私有制、階級合作、非暴力改革を唱えた。国際的には、中国の版図外の被抑圧民族の独立を支持した。大陸

村上衛 森川裕貫 石川禎浩『中国近代の巨人とその著作』研文出版2019年1月

正式のタイトルは『中国近代の巨人とその著作ー曽国藩、蒋介石、毛沢東』研文出版2019年1月。これは、2018年3月12日に東京の一橋講堂で行われた講演会の記録である。一読して大変面白かったのだが、同時に三人の講師の学識の豊かさに関心させられた(写真は心光寺にある石仏。寛文元年1661年寄進の銘が確認できる。)。 第一報告は村上さんによる曽国藩だが、磯田道史さんの武士の家計簿にならって、曽国藩にまつわるお金の話である。曽国藩が科挙の試験に合格して上京するところから話を起こして

遠藤誉『毛沢東 日本軍と共謀した男』2015

  新潮新書である(写真は諏訪山吉祥寺の山門。享和2年1802年築造)。  本書の最初の章で議論しているのは、毛沢東が現在の日本でいえば高校2年程度の学習で最終学歴が終わっていること。留学歴もない。そのコンプレックスが、知識人苛めにつながったというお話だ。示唆されているのは、北京大学図書館で働いたのは、大学受験資格を得るためだったというお話。なぜ図書館司書をしていたかという疑問があったので、この話はとても説得力がある。  そしてつぎのお話は最初のお話は1927年秋,蜂起に失

謝錦華「非北大哲学系不読」2012/10

標題の直訳は「北京大学哲学系で学んでないこと以外について」。ややひねくれた題目だが(多分、遊びで付けた題目で)、素直に書けば「北京大学系で学んだこと」。『青春歳月在北大ー哲学系1957級同学回憶録』社会科学文献出版社2012年10月pp.144-145  1955年、私は故郷の「合肥一中」を卒業した。同学は現在合衆国の有名中国人「楊振寧(訳注 1957年ノーベル物理学賞受賞。1964年米国国籍取得。2003年から清華大学に長期滞在。2015年米国国籍放棄。その政治的発言には

余華「中国について」2010

 余華(ユー・ホア 1960-)は、小学生から中学生という多感な時期が文化大革命の時期。歯医者になってから作家に転業した変わり種である。お父さんは外科医、お母さんは看護婦だが、1980年代の中国では医者は専門職ではあるが、労働者並みの扱いだったこと(たとえば歯医者には見習い修行でなれたこと)、それに比べ作家になることの方が自由時間があり稼げる夢があったことが理解される必要がある。そして住んでいたのは地名からたどると現在の浙江省喜興市海盐县である。浙江省の北部、渤海湾に面した地

紺野大介『清華大学と北京大学』2006

中国の勉強を始めようとしたときに、たまたま出会ったのが本書だった。正式のタイトルは『中国の頭脳 清華大学と北京大学』朝日新聞社2006である。日本では中国の大学といえば、まず北京大学を思い浮かべることは、今でも多いと思うが、両者の関係は実際には逆であることを、詳述している。 今読み返すと、清華大学出身の朱鎔基と胡錦涛の履歴について詳しく述べていること、清華大学と北京大学、この二つの大学の歴史をかなり詳しく紹介していること、また浙江、復旦、南京、上海交通などの一流大学について

矢吹晋「文化大革命」1989

講談社現代新書である。今回改めて2回ほど通読したが良く書き込まれている。毛沢東(1893-1976)について、よく晩年になって判断を間違えるようになったということがあるが、この矢吹さんの本から受ける印象は、老年に至っても毛沢東なりにその思考には一貫性があるということ。年齢を重ねても毛沢東なりの社会主義を追究しようとしていたというのが、この本から受ける老年の、具体的には1960年代以降の毛沢東の印象である。なお本書について、ここで丁寧に抜き書きを作っても良かったが、本書から受け

李公朴、聞一多暗殺事件(1946年7月)と梁漱溟

 中国民主同盟の中央執行委員であった李公朴、聞一多が昆明で国民党の特務(スパイ)により暗殺されたとされるのは1946年7月11日と15日のことである。この事件は、共産党と国民党の間に立つ、中国民主同盟にとって、国民党を見限ることになる、大きな転換点になる事件だと考えられる。そこに到る時間的な流れを確認したい。ポイントの一つは国共が全面内戦に入る局面での出来事である点だろう。  ところで以下の時間の流れで分からない点の一つは、1946年5月20日(別の資料では5月18日)いった

中共六大(1928)時の路線対立

 中国共産党の第六回大会はモスクワ郊外で1928年6月18日から7月11日までモスクワ郊外で開催された。出席142名。そもそも党大会を中国国内で開催できなかったことは、蒋介石による弾圧により中国国内で公開活動ができない状態に陥っていたためであり、逆にモスクワで開催できたのは、当時の中国共産党が、国際共産(コミンテルン)によってほぼ丸抱えの支援を受けていることを示していた。以下、記述は下記資料による。  李蓉 葉青如編著『在莫斯科舉行的中共六大』中共黨史出版社2017年。  周