見出し画像

矢吹晋「文化大革命」1989

講談社現代新書である。今回改めて2回ほど通読したが良く書き込まれている。毛沢東(1893-1976)について、よく晩年になって判断を間違えるようになったということがあるが、この矢吹さんの本から受ける印象は、老年に至っても毛沢東なりにその思考には一貫性があるということ。年齢を重ねても毛沢東なりの社会主義を追究しようとしていたというのが、この本から受ける老年の、具体的には1960年代以降の毛沢東の印象である。なお本書について、ここで丁寧に抜き書きを作っても良かったが、本書から受け取った内容を2点に絞って述べておきたい。

一つは1966年以降の文革で毛沢東がめざしたものは、(当時の)中国の商品経済が未発達だった現実をべースに商品経済を廃絶した社会を理想社会と混同したものだったということである(本書pp.86-91)。

この点を、席宣・金春明《”文化大革命”簡史 第3版》中共党史出版社2006年も「自給自足の自然経済の基礎上に平等(平均)主義的色彩の強い小生産者の空想の王国」を建立しようというもので、毛沢東が共産主義の新世界を発見したと思い込んだものは、社会発展の規律に反した空想の産物に過ぎないと批判している。pp.56-57

もう一つは、後世から見て文化の破壊でしかなかった文化大革命が、世界の若者をとらえた理由にかかわる。それは大衆を大胆に立ち上がらせるという手法がとられた点である。「大衆の自己解放」と矢吹さんは書いて、それに感受性の高い学生は大きな魅力を感じたとしている(本書p.97)

ではなぜこういう手法がとられたのか?この点についても前掲、席宣・金春明《”文化大革命”簡史 第3版》中共党史出版社2006年を援用すると1966年夏、文革を開始するにあたり、権力をなお実権派が握っている。毛沢東は革命の目的を達するためには「ただ直接広範(広大)な群衆に直接頼るしかなかったのであり」天下大乱の形勢作り出すしかなかった。それゆえ毛沢東は乱れることを、賛美鼓吹支持したとしている。p.97

    結局、学生は権力闘争に利用され、農村への下放運動という形で辺境に追いやられた(矢吹さんは捨てられたとは書いていない)。しかし文革の世代の中から、(自分の頭で)思考する世代が生まれることになったとしている(本書pp.110-135)。

    なお文化大革命における文化財などの破壊については、革命運動の過程で始まっていた破壊がエスカレートした側面もある。他方で、日本でも明治初年の廃仏毀釈運動では、仏教美術が大規模に破壊されることが生じている。この廃仏毀釈運動をみると、新たな文化への移行を掲げて、旧来の文化を全否定する運動は日本にもあったことが実感される。社会の価値観が大きく動くとき、社会の価値観の表現でもある文化芸術活動の類まで攻撃対象になるのは、分からなくはないが、破却されてしまった文化財はさすがに元に戻らない。(廃仏毀釈をめぐる書籍が近年多い。手元にある鵜飼秀徳『仏教抹殺』文春新書2018年はその一つ。日本各地の廃仏毀釈の痕跡を丹念に踏査されたことが伺える本である。)


main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp