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中国に関連して生じた事実

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https://blog.goo.ne.jp/fu12345/e/7cc5e1ad373775c11668b88a748c64a6 政治的文化的側面を中心に年代順に採録。
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#北京大学

王復興「文革中の心の歩み(上)」2018

訳出の対象は王復興「我的文革心路歴程」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.305-316 これを2回に分けて訳出する。今回はpp.305-309まで。著者は1965年に北京四中高中を卒業、同年北京大学歴史系に進学。在学中に文化革命を経験。現在は米国在住の民間文革研究者。 1940年代、王復興のお父さんは米国で中国共産党の政策を宣伝する新聞を発行するというかなり特殊な仕事をしていた。そのお父さんが1957年の反右派闘争で右派とされ、以降、著者の家族は鬱屈した生活を

王紹光「大学の夢、期せずして実現(上)」1972-78, 2013/12

王紹光「大学夢、不期而至」『那三届 77,78,79级大学生的中国记忆』中国对外翻译出版有限公司2013年12月pp.9-19 2回に分けて訳出する。今回はpp.9-15まで。筆者は1977年北京大学法律系に進学。その後、米コーネル大学で政治学博士。王紹光には以下の著述がある。 Wang Shaoguang, Failure of Charisma:The Cultural Revolution in Wuhan, Oxford University Press, 199

王紹光「大学の夢 期せずして実現(下)」1978

王紹光「大学夢、不期而至」『那三届 77,78,79级大学生的中国记忆』中国对外翻译出版有限公司2013年12月pp.9-19 2回に分けて訳出する。今回は後半pp.15-19まで。  1978年2月28日、王は北京に到着して、夜、北京大学に到着する。果たして入学した北京大学は夢に描いた理想の場所だったかどうか。王が直面したのは研究能力はあっても、講義が下手な教員。情報が集まるのではなく、情報から閉ざされた大学。北京大学が夢に描いた大学でなかったのは文革の影響のためだろうか?

陸学藝主編《青春歲月在北大 哲學系1957級同学回憶録》2012年10月

 《青春歲月在北大 哲學系1957級同学回憶録》社会科学文献出版社, 2012年10月。内容はタイトルの通り、1957年に北京大学に哲学系で入学した人たちの回顧録である。記名されているのは40名ほど。 彼らはまさに1950年代後半、「大躍進」の掛け声のもと、農村に入っている。あの馬寅初(マー・インチュ)の形骸にまさに触れた世代である。最初本書を手にしたとき、そのとき考えていた馬寅初のことや、「大躍進」時の学生生活が読み取れることを期待したが、本書の内容はその期待を裏

王筑民「学習生活:1957年秋」2012/10出版

 著者は貴州出身。1957年に高考を受験し、第一志望の北京大学哲学系から合格通知が来た。貴州全体では4人が北京大学に合格したとのこと。ただ残念なことに翌年、病のため1958年2月に北京大学を離れている。その後、貴州大学中文系に進み、中国古代文学の研究者となった人である。ただ短期間で退学に至った経緯から以下の思い出の時期は1957年秋と特定できる。以下はその人の「心を弾ませたがしかし残念な回憶(激动而遗憾的回忆)」という文章の一部から。『青春歳月在北大』社会科学文献出版社201

謝錦華「非北大哲学系不読」2012/10

標題の直訳は「北京大学哲学系で学んでないこと以外について」。ややひねくれた題目だが(多分、遊びで付けた題目で)、素直に書けば「北京大学系で学んだこと」。『青春歳月在北大ー哲学系1957級同学回憶録』社会科学文献出版社2012年10月pp.144-145  1955年、私は故郷の「合肥一中」を卒業した。同学は現在合衆国の有名中国人「楊振寧(訳注 1957年ノーベル物理学賞受賞。1964年米国国籍取得。2003年から清華大学に長期滞在。2015年米国国籍放棄。その政治的発言には

趙福中「北大回憶三則」2012/10

三則とあるが則は文章の数を数える量詞。『青春歳月在北大ー哲学系1957級同学回憶録』社会科学文献出版社2012年10月pp.137-139より。この人も1957年から北京大学哲学系で学んだ。この趙福中の文章を最初は、三番目の大躍進のときの下放の話を採録する目的で読み始めた。しかし読み返すと、最初の朱教授による論文指導の話、そしてそのつぎの林教授によるバレーボール指導の話、いずれも味わい深い。  なお大躍進のスローガンのもと、「深翻、密植」という方法で増産をはかったこととその失

于子三事件と胡適 1947/11/03

于子三(1924-1947)は浙江大学学生自治会会主席だった人物。当時、共産党は学生運動に浸透していた。これに対し現地の国民党特務は、学生運動の背後を調べる目的で10月26日朝早く、前日の夜、友人の結婚式に出席していた于子三を拉致した。その後10月29日、留置所内で自殺したとされた(于子三慘案)。背後関係を調べるため、拷問を加えられて殺された可能性は高い。国民党側は、浙江大学のある杭州市を封鎖して、事件の拡大を防ごうとした。他方、共産党側はこの事件を最大限利用して、学生運動を