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趙紫陽(1919-2005)

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#胡耀邦

Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids  中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

趙紫陽 指令性計画から指導性計画へ 1984/09/09

 党の十二大報告作成にむけて趙紫陽が中央政治局常務委員に1984年9月9日出した書簡と、各委員(胡耀邦 鄧小平 李先念 陳雲)の返答が盧躍剛《趙紫陽傳》に記録されている(盧躍剛《趙紫陽傳下卷》INK印刻文学2019年pp.897-903)。大変興味深いので紹介したい。写真は1985年10月24日の趙紫陽(場所は国連総会会議場と推定)。《趙紫陽傳上卷》INK印刻文学2019年p.010より転載。  書簡は我が国の経済体制をどのように概括するかという問題を提起している。そこで中

胡耀邦の失脚と趙紫陽

                            福光 寛  胡耀邦の失脚は1987年1月に生じた。これに趙紫陽がどうかかわっていたかについては議論がある。  1980年から続いた胡耀邦を総書記、趙紫陽を国務院総理とする体制は1987年に入って開かれた中央政治局が開催した民主生活会なる会合(1月10日から15日)で胡耀邦批判が噴出したことで終焉を迎えた(直接的には1986年末に全国各地で起きた学生運動の責任問題。胡耀邦が資産階級自由化に反対するという旗幟が不鮮明であった

胡耀邦ー辞職から逝去までー1987~89

                            福光 寛   胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は総書記を辞職してから(1987年1月16日)亡くなるまで(1989年4月15日)わずか2年あまり。逝去はあまりにも突然だった。  ただ彼は繰り返しての病歴や入院歴があり、身体は決して丈夫ではなかったことも事実である(胡耀邦の一生については「胡耀邦」参照)。  その死を悼む群衆が天安門に集まったことが六四事件につながった。そしてその遺灰は1年半余りの時を経て江西省

趙紫陽 資本主義と民主議会  2000/05/13

宗鳳鳴《趙紫陽軟禁中的談話》開放出版社,2007年,303-304,esp,304-308 2000年5月13日 趙紫陽は言った「問題は資本主義には一種の内在的自己調節メカニズムがあり、自身とまることなく、不断に更新、発展、変化しているのに、社会主義はその体制がミイラ化し停滞してしまったことにある。たとえば自由資本主義時期には、つまりアダム・スミスの自由放任理論の指導のもとでは、資本主義生産の無政府状態は資本主義を周期的に経済危機を発生させ、工場の閉鎖、労働者の失業を招いて

李鋭 改革開放を回顧する 2008

《對改革開放的一種回顧》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司2009年82-85   2008年8月8日上午,在李銳家,王建勛記錄,整理。 p.82 今年は改革開放三十周年である。(30年前の 訳者補語)当時を回顧すると、自然と鄧小平、陳雲、胡耀邦、胡耀邦に趙紫陽の4人の行為を注目することになる(自然離不開四個人的作爲)、というのも改革開放の成否は、彼らの緊密な連携にかかっていたからである。そのなかのキーパーソンは鄧大人である。  鄧小平は林彪と同様に、歴史的に

滿妹「胡耀邦下の経済論争 1979-83」2016

 胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)が1987年に総書記を引退する経緯について7項目にわけて、胡耀邦の娘の滿妹がまとめている。そのうち経済に関係する最初の2項目の概略を述べる。なかなか興味深い。滿妹《回憶父親胡耀邦》天地図書有限公司2016年  pp.720-731 1.生産目的をめぐる論争  もともとは宣伝部長として中央指導部の講話を用意する際に生じた問題で(1979年5月から10月)、胡耀邦は社会主義生産の目的が明確でなく、管理体制で高度であることが生産力の発