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Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids

 中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を引くことになった。
 胡耀邦は湖南省の劉陽で1915年11月、貧しい農民の家庭に生まれた。彼は14歳の時、共産主義運動(the communists)に加わるため家を飛び出した。若年にして彼は、中国の共産主義者たちによる北西部の新たな基地への長い苦しい横断であったー1934-35年の長征に参加した。1930年代に彼は鄧小平の近くで働き、鄧小平のもとで1947-49年の内戦の間、軍の政治委員を務めた。胡耀邦は1952-66年の間、共産主義青年団の責任者だった。
 文化革命の間(1966-1976)、鄧と胡はともに中国共産党CCPから二度追放され二度復権した。二度目の名誉回復のあと、胡は宣伝部長になり、党の支配組織である政治局に入った。1980年に彼はCCPの総書記になり、支配組織Politburoの内部サークルである常務委員会に選出された。彼は1981年に党主席になったが、(毛主席がやったように)一人の人に多くの権力を得て党を支配することをふせぐため、1982年にそのポストを自ら廃止した。胡は総書記として、党から毛沢東主義のイデオロギーを取り除いてより実践的弾力的政策に移ることを支援した。彼はまた、党員からのはみ出し者ー保守的で毛沢東主義をあきらめない、あるいは腐敗しているかまたは能力のないもの―を警戒した(訳者 このフレーズは疑問がある。胡耀邦に人を警戒する側面が十分あれば、彼は失脚しなかったのではないか。)。
 1986-87年、政治改革を求める学生に先導された巨大なデモが爆発した。胡耀邦はデモを抑えず、デモは数週間続いた。その結果、彼は1987年早く総書記を辞めさせられたが、常務委員会のメンバーにとどまった。2年後の1989年4月15日彼は北京で亡くなった。彼の葬式の日、幾つかの都市では学生たちが集まり彼の死を悼んだ。集会は間もなく、より急激な政治改革を求める天安門広場などでの一連のデモに発展した。


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