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古代人の絵、死刑囚の絵、描かれなくなった絵【世界遺産と僕#2】


トップの画像はWikipediaより拝借。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E6%B4%9E%E7%AA%9F

フランスのアルデシュ県 ポン・ダルクの装飾洞窟。
人類最古の壁画、3万2000年前のものだとか。
これが発掘される以前のラスコー壁画が有名だけど、あれは1万5000年前らしい。
そんな昔から、人類はなにか絵を描いて表現したりしている。


2022年 7月26日に、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大に死刑が執行された。

2008年に起こった事件、14年前の6月。
(7年前、14年前、28年前みたいな話を前の記事でやってたので、死刑執行のニュースを見て「それがくるか」と妙な心持ちがした。)

当時、事件の報を聞いて、次々と増えていく死亡者の数を見るにつけ、とんでもないことが起こった、と感じたのを覚えている。

最終的に、本人から語られた犯行動機は「ネット掲示板のなりすまし、荒らしをやめてほしかった」というものだった。

「派遣労働者」や「負け組」というようなレッテルと犯行との因果関係を、本人は否定していたが、ネットの掲示板にそこまで没入する背景には、そうした社会的な立ち位置も無関係ではないんじゃないだろうかと思う。
母親から虐待をはらんだ育てられ方をしていたことも、事件の発生には大いに関係があると思う。

そういった、事件の背景にあるものを取り上げるニュースなんかを見ていて、僕はこの事件、犯人が自分と全く違う世界の人間、自分とは関りの無い人間だとはどうしても思えなかった。
むしろ、まかり間違えば自分がこの犯人だった可能性だってあるのではないか、というような意識が拭えなかった。そういう内容の歌まで作った。

2008年当時、大学卒業後も活動しようと思っていたバンドの解散がいきなり決まり、僕は多少、いやかなり鬱屈した状態だった。
だからといって知らない人に危害を加えようなんていう発想にはならなかったが。

加藤智大を負け組のヒーローやら派遣労働者の代弁者みたいに祭り上げていた動きもあったが、そこまでじゃないにしろ、思うところはあって歌にしてライブで歌っていたようなこともあり、今回の死刑執行には単なるニュース以上の驚きを覚えた。

それで、ネットで色々とみているうちに
「加藤智大の人生ファイナルラップ」というものに行きあたった。

本当に、いわゆる「ラップ」である。
韻を踏んだ言葉を連ね、自身の心情や考えなんかを表現するアレである。
そういうヒップホップの「Rap」と、死刑確定により自分の人生がもう終わりであることを最終周、カーレースなどの「Final Lap」と掛けていて、「残り人生あと何周?」というフレーズを繰り返すことでそれを強調していた。(たぶん)

衝撃だった。

その、表現の仕方がテクニカルであること、技巧点が高いこともさることながら、そんな自由な表現を発表する機会があって、そこでこんなにも思い切り自身の表現を展開していることが、である。

「死刑囚表現展」というのが初回が2005年で開催されていて、加藤智大は2015年から出展、『人生ファイナルラップ』は2018年の作品だとか。

見ていくと、ラップやその他の文芸作品以外に、絵画作品もこれまで多く出品されてきていたらしい。

加藤智大以外の死刑囚の作品も見たが、芸術性の高い絵画作品なんかがいくつも見られた。

人間には、「思いを表したい」「何か創りたい」という表現意欲・創作意欲というものがある。
3万2000年前のフランスでも、21世紀の東京拘置所でも、それは変わらない。
そしてその表現が、作者が人を殺めた罪人であっても、見た人、触れた人に何かしらの感動を与えることがある。むしろ、作者が死刑囚である、ということが、各作品の説得力を助長しているきらいさえある。

しかし、やはり手放しにこの死刑囚表現展を「すごい」「素晴らしい」と讃えることはできない。
自分の思いを表現できる死刑囚達の背後には、もう何も表現することができない人たち、死刑囚たちによってその機会を永遠に奪われた人たちがいるからである。

現行法で死刑になっている人は、全て人を殺した罪によるもの。(軽く調べた)
そこには、確実に被害者がいる。
殺人の被害者、既にこの世からいなくさせられた人たちが。
死刑判決となった事件の被害者の中には、もしかしたら「死んで当然」というような人物もいたのかもしれない。
しかし、こと秋葉原の事件に関しては、被害者は全くの無関係の人たちばかりである。
掲示板の荒らしだとか、母親の虐待だとか、全く関係ないのに、突然命を奪われて、永遠に何も言えなくなってしまう。何の言葉も紡げず、何の絵も描けなくなってしまう。

そんな風に、他人の人生を終わらせてきた、何もできなくさせた人物が、自身の表現を成しているというのは、理不尽である。
実際、死刑囚の表現展には、そういった被害者・遺族の感情を無視しているという批判もあるようだ。

それでも僕はこの死刑囚表現展を止めるべきだとは思わない。止めろとも言わない。どんどんやれとも言えないけれど。この世の物事が全て倫理観・正義感のもとに白黒ハッキリとされて成り立つわけではない、というのを見せられている気がする。

僕自身が、創作意欲や表現欲ありきで人生を送ってきている人間なので、どんな人にでも、表現の場が確保されるということ自体は、悪い事ではないと思う。それに憤る人がいるにしても、だ。

何せ3万2000年前から、みんな絵を描いたりしてきたんだから。


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