「ガバナンス」の神話

先日、東工大同窓会のイベントで、決めつけてはならないとき・決めなければならないときという講演をしました。いつの世も、意思決定は難しいものです。より良い意思決定をするにはどうしたらよいか、もちろんどこにも正解はないのですが、少なくともヒントとして使えそうなものはいくつかありそうです。その中で

  • 自主管理型組織(TEAL型組織)

  • アジャイル開発

でどのように意思決定が行われるか、をお話ししました。

私は、この2点はいずれも、日本の製造業にルーツがあるのだ、という仮説を持っています。これらの伝統が、1990年代から2000年代にかけて、日本企業から失われていったことが、「失われた20年」の根本原因なのではないのか、と考えています。どういうことでしょうか。

TEAL型組織

組織論の世界でここ10年ほど話題になっているものの1つは、自主管理型の組織です。世の中の多くの組織は、階層型の組織構造を持っていて、社長以外の社員には、必ず上司がいて、より強い意志決定権を持っています。しかし、自主管理型組織には上司はいません。そのような組織で、もしチームの意見が割れたら、どのように意思決定すればよいのでしょうか。

上司が意思決定権を持つ、ということは、意思決定権がどこにあるかが分かりやすい、ということでもあります。組織が大きくなれば、課長より部長、部長より本部長、と強い権限を持つようになります。企業を相手に製品・サービスを売り込む営業担当者は、より強い権限を持つトップにアプローチするのが常套手段です。最終的には常に、社長が意思決定権を持つことをよく知っているからです。

このように、階層的な組織構造には「誰がXXについて権限を持つか」を簡単に見通せる、という大きなメリットがあります。しかし、今はITがある時代です。エンジニアの採用についてはAさん、オフィス什器の購入はBさん、原料の購入についてはCさん、のように個別に意思決定権を分散させたとしても、それがITで誰にでもわかるようになっていれば、組織の複雑さの問題は解決されることになります。自主管理型組織が今になって注目されている裏には、そのような理由もあるのだと思います。

自主管理型組織の1形態として、フレデリック・ラルーが提唱しているTEAL型組織があります[1]。TEAL型組織では、組織を小さなチームに分けて、それらのチームが自主管理を行います。チームにはボスがいませんから、すべての意思決定はチーム全体の話し合いを通して行われます。もちろん、意見の違いが出るでしょうから、簡単に合意できないこともあるのだと思います。でも、TEAL型組織では、それぞれのメンバーがお互いを尊重することによって、違いを乗り越えていくのでしょう。

フレデリック・ラルーの本を読んで「まてよ? これはQCサークルと似たコンセプトなのでは?」と思った方もいるのではないでしょうか。1970年代から1980年代ころ、日本の製造業が高い品質で世界を席巻していた時代に、それを支えていたのは現場の自主的な改善活動だったのだ、という話を聞いたことがあります。QCサークルは決して上司に命令された活動ではありません。現場の工員が、勤務後の時間に自主的に集まって「ここをこうしたらもっと品質が良くなるのではないか」というようなアイディアを話し合い、それに基づいて改善をしていきました。それがその後「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるような圧倒的な産業競争力につながっていったのです。意思決定が上司によってなされたのではないことに注意してください。現場の課題を解こうとして、あくまでも自主的に話し合った結果、自然に合意につながっていったのが、QCサークルだったのだと、私は思います。

アジャイル開発

もう1つの意思決定のヒントは、ソフトウェア開発の世界から現れてきました。ソフトウェアは、それが比較的簡単なものであっても非常に複雑です。お客様が「こういうソフトウェアを作って欲しい」と言ったとしても、そこには決められていない多くの細部があり、それぞれに対して意思決定が必要です。お客様が、それらの細部を最初から全部わかっている、ということはまずありません。ソフトウェア開発者だったら、ソフトウェアが出来上がってからお客様に「いや、ここは違うんだよなー」と言われた経験の無い人はほとんどいないでしょう。

一般に、人は自分の本当に欲しい物を言語化するのが苦手です。ギリシア神話には、ミダス王が「自分の触れるものをすべて黄金にしてほしい」と願い、それがかなったときに、自分の娘も黄金になってしまった、という逸話があります。IBMのExecutive VPだったNick Donofrioは優れたリーダーでしたが、彼が良く言っていたのは “Be carefull what you wish for because you might get it” (何かを欲しい、と言うときには気をつけなさい。本当に手に入ってしまうかもしれないから)ということでした。

欲しいものを事前に言語化できないことは、人工知能の研究でも未解決問題とされています(私の前回のブログ「見たくないものを、見る」でも、ロボットに「コーヒーを持ってきて」と命令することの難しさについて考えました)。お客様の欲しいもの(要件)が事前にわからない問題に対して、IT業界はどのように対応してきたのでしょうか。

その答えの1つがアジャイル開発です。アジャイル開発では、開発期間を1週間などの短いサイクル(「スプリント」と呼ばれます)に区切って、その範囲でお客様の要望するものを作ります。もちろん開発期間が短いので、すべての機能を実装できるわけではありません。しかし、少しでも動いているソフトウェアを見ると、お客様は「いや、ここは違うんだよなー」と反応してくださいます。それをフィードバックして次のスプリントでは修正していくのです。

アジャイル開発は、完全な意思決定は事前にはできない、だから短いサイクルで機敏に修正していくしかない、という考え方に基づいています。実はこのアジャイル開発が手本にしているのは、トヨタ生産システムだった、というのは、私は最近知りました。皆さんは教科書等で見たことがあるかと思いますが、トヨタの工場には「アンドン」と呼ばれる異常発生を知らせるランプがあります。現場の工員さんは、生産工程に異常を感じた場合は、アンドンの紐を引くことによって、生産ライン全体を直ちに停止させることができます。問題を見つけたら最短の時間で修正する(「リードタイムの短縮」と元トヨタ自工副社長の大野耐一さんは呼んでいます)ことで、生産における不確実性を最小化する、という意味でアジャイル開発と同じ発想であることがわかっていただけるでしょうか。

日本企業はなぜ現場力を失ったのか

TEAL型組織も、アジャイル開発も、日本の製造業にそのルーツがあるのではないか、という話をしました。しかし、残念ながら今の多くの伝統的日本企業は、TEAL型・アジャイル型の組織風土、言い換えれば現場の従業員がエンパワーされた企業文化を失っているように見えます。なぜでしょうか。ここから先は、私の大胆な仮説です。少し眉に唾をつけながら聞いてください。2つの要因が考えられます。1つは外的なもの、もう1つは内的なものです。

外的な要因は欧米の動きです。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれたころ、欧米の製造業は大きな脅威を感じたに違いありません。日本製品の品質に対抗するために、彼らは彼らなりの、システマティックな品質管理の取り組みを始めました。その代表的なものが品質管理の世界標準、ISO9000です。ISO9000は典型的なトップダウンの仕組みで、最上位には会社の方針を表す文書があり、その方針に基づいて、全社に統一的に適用されるプロセスやルールが整備されていきます。個別の現場の改善活動に任せるのではなく、全社的に同じ基準で品質管理を行うことにより、品質のばらつきが小さくなり、全体最適も図れるようになります。品質マネジメントのISO9000以外にも、情報セキュリティマネジメントのISO17799、環境マネジメントのISO14000などが同じ考えに基づいて次々と制定されました。さらに、これらの世界標準に基づいて経営を刷新するために、欧米のコンサルティング会社が大挙して日本にやってきました。

彼らは日本の経営者にこんなことを言ったのだと思います。「品質やセキュリティなど会社の存続に関わる課題を、何をするかわからない現場に任せておいてよいのですか。これらは経営の問題ですので、あなた方経営者の責任が問われます。きちんとガバナンスの仕組みを整えなさい」、と。実は私自身も、IBMのコンサルティング部門に出向していたときに、そのようなことをお客様に言っていました。そして、多くのプロセスやルールの整備を支援し、大量の文書を作成したのでした(一方欧米では、これらの標準を杓子定規に適用するのではなく、現場の実情に応じて柔軟に運用している、というご指摘をいただきました)。もちろん、トップダウンのガバナンスには、基準の統一や全体最適など大きなメリットがあります。しかし、後で述べるようにプロセスやルールは、現場の人の考える力を削いでしまう効果もあります。欧米が持ち込んだ「ガバナンス」の神話、それが日本企業の現場力を失わせた大きな要因だと、私には思えるのです。

日本企業が現場力を失ったもう1つの要因は内的なものです。QCサークルは勤務時間外に行われる自主的な活動です。これは経営者にとっては大変都合の良いものでした。コストをかけずに、つまり残業代を一切払わずに、品質が自然に上がっていくからです。こうなってくるとQCサークルを奨励するインセンティブが働きます。全社的なQCサークル発表会で優秀なチームを表彰します。日科技連はQCサークル全国大会という巨大なイベントを毎年開催しています。会社は、デミング賞という表彰を受けるために、コンサルティング会社に支援を要請するようになります。このあたりのことは、小説デミング賞[2]という本に詳しく書かれています。この本の内容がどれだけ本当の姿を反映していたのかはわかりませんが、少なくとも私にはありそうなことだと思えます。このようにして、現場の小集団活動はいつのまにか形骸化してしまい、様々な利権が交錯する世界になってしまったのではないでしょうか。

私は現在、東大の人工物工学研究センターの特任教授として「次世代ものづくり」のプロジェクトに関わっています。その中で、どうしたらやりがいのある生産現場を実現できるか、を若い世代にヒアリングをしたことがあります。その時ショックだったのは、「自分がやりがいを持って仕事をしたとき、それを評価してくれるのか」と言われたことです。やりがいを持って仕事をしても評価されないのであれば、それは「やりがい搾取」ではないか、と。それは確かにその通りなのでしょう。自主的活動が「やりがい搾取」と受け止められるのは、そのような現場の自主的活動を便利に使ってのし上がってきた、今の大人たちに責任があると言われても仕方がないのだと思います。

「ガバナンス」再考

では、どうすればよいのでしょうか。私は、まず日本社会にまん延しているガバナンス神話を払拭することから始めないといけないと思います。ガバナンスとは、極論すれば「現場に任せていたら酷いことが起きる」という性悪説に基づいた考え方です。一方で、TEAL型組織やアジャイル開発の裏には、個人を尊重すればより高いパフォーマンスを発揮してくれる、という性善説の考え方が流れています。これをここではエンパワメントと呼びたいと思います。人を信じないガバナンスは、人を信じるエンパワメントの対極にあります。

もちろん、ガバナンス、あるいはそれを支えるプロセスやルールが全く必要ない、と主張するつもりはありません。しかし、プロセスやルールはそもそも、意思決定の効率化のためにあるべきだと私は考えます。組織が行う意思決定には、同じ状況が繰り返し現れるルーチン化されたものもありますし、同じ状況が2度と起きないものもあります。同じ(あるいは似たような)状況が繰り返し現れる場合、その度にチームで話しあって、あるいは様々な細部を検討して、意思決定するのは非効率的です。その場合、プロセスやルールに則って(半)自動的に意思決定するのは理にかなっています。

しかし、プロセスやルールが制定されたときに、将来起きるすべての可能性を見通せることはまず無いでしょう。ルールが想定していなかった状況が発生したとき、ルールを杓子定規に守ろうとしたり、その特定の状況に対応するためだけにルールを改正したりするのは本末転倒です。そのような場合、ルールの想定した前提が崩れているのですから、ルールにこだわらずに、ルールが実現しようとした組織の価値観に立ち戻ってチームで話し合い、「これはルールの例外である」と意思決定すれば済むはずです。

プロセスやルールは時に現場の人を守ってくれます。決められた手順、決められたルールを守っていれば、たとえ何か問題が起きたとしても責任を問われないからです。しかし「ルールさえ守っていればよい」という姿勢は、現場の思考停止を招きます。「ガバナンス」が現場の人の創意工夫の芽を摘んでいるのだとすれば、これほどもったいないことはありません。

私は、日本の経営者には、もっと「現場に任せる勇気」を持って欲しいと思います。

参考文献

  1. フレデリック・ラルー、[イラスト解説]ティール組織――新しい働き方のスタイル、ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4297102579、2018.

  2. 徳丸壮也、小説デミング賞 ― 己の尊厳をかけて蘇れ、ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492041543、2001.


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