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長崎 原爆の日/原爆資料館

74年前の今日長崎に落とされた原子爆弾。その歴史を刻む原爆記念館が長崎市内にある。長崎に住んでいた頃そこは普段の通勤や買い物での通り道からすぐの場所だった。学生時代に初めて長崎を訪れた際に記念館に入った。広島原爆記念館も訪れたことがあるが今ではどの様な違いがあるかあったか細かいことは覚えていない。ただひたすらその被爆した街や人々の悲惨さ、残酷さに言葉を失ったことを強烈に覚えている。
一度だけ何を思ったか上さんに記念館に一緒に行こうかと誘ったことがある。今となってはデリカシィがないというレベルではなく、思いやりがなかったというか配慮が足りなかったというか、ともかく誘ったこと自体悔やまれる。上さんは被爆2世だった。実母はその両親と弟と共に長崎で被爆している。母のご両親、つまり上さんの母方の祖父母は即死。弟、つまり上さんのおじは30歳台で白血病で亡くなっている。実母は70台まで生きたがお身体はさほど健康体ではなく病弱だった様だ。誘った際上さんは少し身震いした。曰く学校の校外授業で記念館に行ったことはあるが展示されたものが夢に出てくる、と。二度と訪れたくない。行くなら1人で行って欲しい。上さんにとって原爆は歴史上の出来事ではない。身内の出来事だった。身内の悲劇だった。そのことを理解するのに上さんの身震いを間近に見ただけで時間はかからなかった。立場が違えば感じ方も考え方も異なるのは当然だ。一緒に過ごし共に人生を歩むパートナーとして触れてはいけないことだった。少なくともこちらからは決して口火を切ることはあってはならないことだった。身内の悲劇である被爆を歴史の勉強として捉えた自分を上さんはどの様に見ていただろう。当事者にしか分からない理解出来ない気持ちや感情。その気持ちを汲むこと汲もうとすることも大切かも知れない。が、おそらく当事者にしか分かり得ない底深い闇の様なものがあったとしたらむしろあえて触れずにそっとしておく。自分には到底分からない、分かろうとしても出来ない。そんな一歩下がって見守ることも共に歩む相手への思いやりではないか。あれ以来そう思い二度とこの件とそれに類することは自分からは口にしなかった。
今となってはもはや被爆2世としての上さんの気持ちや感情を聞くことは叶わない。ただ、あの記念館に誘った時のやりとりから自分が気づいたこと、学んだことは決して忘れずにいたい。

亡くなった方々、苦しんだ方々のご冥福をお祈り致します。どうか安らかに。お水を飲んでください。

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