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河口慧海の薦める教育法

河口慧海の「チベット旅行記」を読んでいる。正確には読書というよりスマホのアプリを使ってAudibleで聞いている。明治30年代の仏僧のチベットへの旅行の記録で口述したものを文章にしているせいか読むより聞く方が実際合っている気がする。それはともかく当時の日本の文化や世相、チベットの文化、風習が事細かに描かれていて面白い。

チベットと言えばチベット仏教、チベット仏教と言えばダライ・ラマという連想になる。ダライ・ラマはチベット仏教の中で高位のラマ(僧侶)だ。自分では勝手にカトリックにおけるバチカンの教皇に当たると思っている。(正しいかどうかは知らない。実際怪しいが。)

このダライ・ラマの継承について河口慧海が触れている。

世襲制ではない。ダライ・ラマが亡くなるとその遺言や夢占いとかなんやかやで次のダライ・ラマが生まれる地や時期を予言する。該当する子供を探し候補者を選ぶ。選ばれた候補者が次のダライ・ラマに相応しいか本当の化身かを調べる。その過程で選ばれる候補者というのは1人ではないらしい。複数の候補者が選ばれる。

複数の候補者がいるということは1人以外は選ばれないということになる。最終的にはダライ・ラマにはなれない子供もその候補者の中にはいるわけだ。その様な条件の中で選ばれた候補者が最終選考(?)までの過程で振り落とされたり選考に通って次の段階に進んだりする。

この選考中の間は候補者である子供達は次期ダライ・ラマであるかも知れないしそうではないかも知れないという宙ぶらりんの状態であるわけだ。

次期ダライ・ラマといってもまだ子供である。ましてダライ・ラマではないかも知れない。そういう状態の中候補者である子供達を教育する。その教育するに当たってダライ・ラマであることを前提に教育するというのだ。つまり、子供といえどもある種の敬意と尊厳を持って子供に接するという。

例えば、「そんなことをしていてはダライ・ラマとして相応しくないです。」といったたしなめ方をするらしい。この教育法が極めてその子供にとって良いというのだ。結果としてダライ・ラマではなかったとしても幼少のある時期を将来のダライ・ラマとして遇されることで人間としてある程度高い次元の高みにまで達するらしい。これはダライ・ラマやその候補者でなくてもどの子供にも良い教育法であると河口慧海は触れている。

子供を将来それ相当の人物に成長すると信じて遇し教育する。これは有効で良い教育法だ。河口慧海の言う通り。

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