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長崎きまぐれ案内その16 ー精霊流し 実践編

 高度な手作りの精霊船は手先の不器用な自分には無理だと最初から諦めていた。器用だったとしてももともと精霊船の知識が無いよそ者が独りで一から手作りするのは至難の業たったと思う。

後年、精霊流しを経験した後にこの手の報道を地元のテレビ局が流しているのをよく観る機会が多々あった。(それまでも報道はあったと思うが関心がなかった。)熱心な家庭では丹念に早い時期から初盆となる精霊流しの準備に取りかかる。その内容を見てとてもかなわないと思った。こういった地域の慣習や習わしというものは子々孫々受け継がれているのだろう。子供の頃に経験した記憶をたどりながら大人になってその記憶を丁寧にトレースしながら次の世代へと伝える。一から手作りで精霊船を作る。にわか長崎市民であった自分には少々無理な試みだったと思い知らされた。

5月に手配した精霊船が自宅に届いたのは7月終わり頃だったろうか。駐車場横に据えて少しずつデコレーションしていく。義弟も休みの日に手伝いに来てくれた。

問題は当日の参加者だった。

最初は本当の身内だけで考えていた。自分の他に義父、義弟の家族の4人で計6人。実際手配した精霊船には船を押す竹が3本付いており左右に1人ずつで6人である。

しかし実際の必要な人数はもっと多く船を引く以外にも担当はいろいろあった。

船本体だけではない。印灯籠、銅鑼、爆竹も必要だ。ゆっくり少なくとも3時間はかけて船を引くので途中喉が渇く。飲み物も必要だった。

具体的に各担当と人数を数えてみる。先頭に灯を掲げた人が1人。銅鑼を肩に提げる人が前後に2人、銅鑼を鳴らす人が1人。精霊船を引く担当が6人、爆竹を鳴らす人が2、3人。途中で休む際に飲むアルコールやらソフトドリンクを運ぶ人が最低2人。(アイスボックスに入れてビールやら酎ハイやら何やらを一杯詰め込む) しかも精霊船を引く人は入れ替わって交代するから6人×2で12人は欲しいと言われた。こうなる少なくとも最低でも20人は集めないといけない。

20人という数字を知ったとき正直青くなった。こちらの実家は関西でお盆に呼ぶつもりがなかった。呼ぼうとしてもそんな人数はとても集まらない。かといって上さんの実家の方の親戚とは法事のときぐらいしかお付き合いがなかった。

幸い、上さんのおじさんが事情を聞いて快く手を貸してくれた。面倒見の良いおじさんだった。「よし、燎平くん、僕に任せなさい。」と言ってくれた。実際全くのお任せの状態で必要な手配をして貰えた。助かったと思った。おじさんは精霊流しは初めてではないらしく手際も良かった。

当日は自分が想像するよりもっと手間暇を親戚の皆さんにかけてもらった。

お昼前から我が家に女性陣が集まりおにぎりを握る。何か他につまむものも用意してくれた。そうか、腹が減ってはイクサは出来ぬ、だ。全くそんなことに気が回らない自分が恥ずかしかった。(けど、経験が無いから仕方が無い。)

精霊船の最後の装飾を施した。準備万端。男性陣は皆お揃いの白い上下のはっぴに着替えた。家の前でその日のために集まってくれた親戚一同で精霊船と一緒に記念写真を撮った。

いざ出発。坂を降りて小道から通りに出る際お世話になった町の自治会長さんが家の前でご夫婦で出迎え見守ってくれた。家の前にさしかかったとき2人揃ってお辞儀をして挨拶してくれた。

涙が出た。有り難いと思った。親戚が総出で参加してくれることはもちろん嬉しかったのだが地域の人がこうやって温かく義理堅く見守ってくれている。おそらく精霊流しをしなければ決して得られなかったであろう経験だった。

夕方4時頃出発した。大通りに出るともう前後は精霊船があちこちで引かれていた。市の中心へ向かう片側2車線の道路は歩道側の1車線は完全に車は通らず精霊船が連なっていた。ゆっくりとした速さで爆竹を鳴らし銅鑼を叩きながら掛け声をあげる。

果たして亡き上さんには届いているだろうか。聞こえているだろうか。ふとそう思った。

途中1回船を止めて小休憩した。後で知ったことだが会社の同期が反対車線を通る車の中から見ていて後日精霊流しをしたんだねと声をかけてくれた。

その後のことはあまり覚えていない。爆心地公園に近い市営陸上競技場まで船を引いた。その後は義父の家に改めて集まり食事の宴を催した。というか義父の取り計らいで宴を催して貰った。もうその頃には自分の役目は終わったと肩の荷がおりてホッとしていた。多分放心状態だったと思う。

精霊流し。この言葉を聞くと精霊船と爆竹の音を思い出す。爆竹が残す白い煙が空に舞い上がる風景をバックに。

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