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初めての海外旅行 その1

大学生時代に初めて海外旅行を経験した。

大学1回生の終わりの春、2回生になろうというタイミングだった。1986年のこと。

カトリックの総本山バチカンでイースター/復活祭のミサに預かることが最大の旅の目的だった。中学・高校時代にカトリックのミッションスクールに学びその縁が回り回ってカトリックの信者でもないキリスト教徒でもない自分がそんなツアーに参加することが出来た。

初めての海外は初めてづくしの経験が一杯つまったものとなる。今では30年以上前のことになるがそれでも未だに記憶に新しい事柄がある。

海外はおろか国内旅行もままならないこの時期。はるか昔の学生時代に想いを馳せ旅した気分を味わってみようと思う。

今では考えられないことだが当時国際線のフライトのチケットは細長い短冊の様なビニールの様な紙と薄黒いカーボン紙みたいなものとの連なりで横に長いチケットだった。インターネットのイも無い時代である。IATAとかだったろうか。旅行会社から渡されたチケットと初めて手にしたパスポートは何があってもなくしたり盗られたりしない様注意しなさいと何度も言われた。

チケットの購入や手続きの面倒な点、タイムリーかつ迅速に手続きが出来ずに必要あれば旅行会社や代理店に連絡を取る必要がある点など今に比べて不便なことは多かった。

一方、逆に当時はとてもおおらかだったことがある。生まれて初めてフライト中に飛行機の一番前方、コックピットの見学が許された。ボーイング747、通称ジャンボジェットである。当時はコックピットの定員は3名。機長、副操縦士、フライトエンジニア(機関士)だった。工学部機械科の学生だったその頃夢は飛行機を造ることだった。離陸後安定飛行に移りひと段落した機長以下3人がニコニコ出迎えてくれたコックピットで興奮した。「エンジニアになりたい。」と英語で話すと一番後ろで壁一面の計器を前にしたエンジニアを機長と副操縦士が指差した。エンジニア/Engineerでは必ずしも設計者を指すのではないことを知った瞬間だった。DesignerとかEngineer Designerとか違う表現でないと正しく伝わらない。英語の勉強をしなくてはという思いを強くした瞬間だった。最も海外に行くとそこかしこで何度も同じ思いに襲われるし教われる。

機内でタバコを吸うのもまだ許された時代ではなかったろうか。1970年代の映画を見るとコックピットで操縦士が葉巻をくわえながら操縦桿を握っているシーンなんかに出会う。今では考えられない。

こうして思い出すと安全という概念が全く時代とともに変わっていくのが分かる。決定的だったのが米の911だろう。あの悲劇以降空港に行くタイムスケジュールが全く変わってしまった。セキュリティチェックの時間が読めなくなって早めに空港に着かなければいけなくなってしまった。

もう一つ時代の変遷を感じるのは欧州へ行くルートだ。当時ロシアではなくソビエト連邦。ソ連の領土は西側の国の航空会社の民間機ですら通ること横切ることは許されなかった。なので北回りとはアラスカのアンカレッジ経由であった。航続距離の問題もあったろう。北回りでは必ずアラスカで一旦トランジットしていたと思う。当時アラスカと言えばアンカレッジ。アンカレッジと言えば北回りというイメージが定着していた。今ではアンカレッジ空港も寂れてしまったらしい。時代とともにニーズが変わりその地位を失ってしまった典型例である。

結局フライト料金の比較の結果南周りとなりシンガポール経由で旅程は組まれた。


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