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多様性 普通は普遍ではない

神奈川県に住んでいる。4年半前に神奈川県相模原市で起きた障害者殺傷事件が起きた。事件の報道に接した際最初に思い浮かんだのが多様性という言葉だった。犯人は「こいつらは生きていてもしょうがない」と言ったとも言われる。この報道を見たときに多様性という言葉を連想した。何故か。

地球の歴史を紐解くにどの様な生物が生き残っていったか。それを調べると強い生き物が生き残ったとは必ずしも言えない。むしろ変化に適応し最適に変化し続けたものが生き残っていったという。もっと言えば強弱に関わらずその時代時代の変化に適応したものが生き残っていった。では変化に適応する、適応出来るにはどうであれば良いか。どうすれば良いのか。いろいろあるだろう。まず最初に変化を恐れないことである。変化を恐れないとはどういうことか。ここで多様性が問題になってくる。現状を肯定していては変化は恐怖でしかない。現状を否定的にとらえるとまでいかなくともこのままではいけないという意識や危機感を持って初めて変わることが出来る。生き物、特に人間は基本的に変化を望まない。変化のない安定を望む。その上で変化するためには現状が一つの選択肢でしかないことを理解せねばならない。自他を比較した上で自分を見つめ直し他人を見て違いを認識する。その他人にある違う部分を見て取り入れたい、取り入れ様とする希望や意思が生まれる。これが変化への第一歩となる。その際多様性を認めている、理解していることがその必要条件になってくる。自他の比較において相違点を認識し違いを認めること。ここに多様性を知り認め自分とは違うものを受け入れる素地が生まれる。

先の障害者殺傷事件を起こした犯人はこの多様性を認めなかったのではないか。社会で役立つ人間でなければ認めない、認められない。社会に貢献せず無益な人間は生きている価値がない、と考えていたのではないだろうか。そう思ったとき多様性の重要性を感じた。仮に、社会に役立つ人間とそうでない人間とが社会に存在するとする。どこでその線引きをするのだろうか。経済的に役立つか役立たないが分かり易い例だろう。では経済的に役立たない人間がこの世に存在する意義はないのか。もちろんそんなことはない。経済的に役立たなくとも社会的に役立っている人間はいる。社会的貢献とは経済のみではない。その存在そのものが第一義的に意義がある。多様性とはその様な価値観の重厚さ、厚みを示唆したものだ。

おそらく犯人にとって自分も含め世の中は普通は社会的に役に立っているという人ばかり、あるいは役に立っている人が普通の人という認識があったのではないか。しかし、普通は普遍ではない。時代が変わり社会が変化するとその「普通」の中身も変わる。そこに多様性が重要になってくる。多様性があれば「普通」の中身が変化しても対応出来るからである。

人類史において歴史の発展とはこの多様性を具体的に具現化したものではないかと自分は考えている。

例えば、お年寄り。時代が進めば進むほどお年寄りが生き易い快適な社会になっていると思う。人種差別についても時代とともにその差別のレベルが改善されている。(まだまだ差別そのものはあるが。)

もっと卑近な例を挙げてみよう。かつて英語を話すのが自分だけという職場で働いたことがあった。輸出船を扱っていた時に重宝されたがとにかく閉口したことがあった。英語を話せるといってもそのレベルにも様々であって何でも表現出来る訳ではない。しかし、母国語である日本語しか話せないその職場の人はそのことが理解出来なかった。英語が出来るイコールとにかく英語で何でも話せるとしか思わない様だった。別に日本語であったとしても相手を説得したり理解するには様々なシチュエーションがあり場合によっては容易な会話で済むケースもあるし場合によってはなかなか一度の会話で済む訳にはいかない場合がある。母国語ですらそうなのであるからましてや外国語を使えばもっと複雑であることは容易に想像出来るだろう。そう思うのだが日本語しか話せない職場の先輩はこと外国語となるとこちらに任せっきりになる。その上話すか話さないかの二者択一としか理解出来なかった。その結果、「なんで(相手に)話さないの?」とおっしゃる。簡単に話してネゴ(交渉)出来る訳でもなく話す機会やタイミングを狙って待ちの姿勢になるこちらをイライラして見守っている感じだった。これは会話の多様性、言語の多様性を理解していないからではないかと今振り返って思う。この先輩が少しでもたとえつたなくとも英語を使って外人と会話をすれば何か別のイメージをつかめてこちらへの態度や認識が違うものになっていたのではないかと思う。

多様性は今の世の中のような大きな変化に遭遇した際には重要なキーワードになる。


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