見出し画像

自粛という名の強制

自粛とは「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」(デジタル大辞泉より)

新型コロナウイルスに対する各国の対応はその国それぞれの政治情勢、文化、国民の思想や考え方、慣習が現れていて報道を見ていてなるほどといろいろ考える。

日本はどうだろうか。

政府や国や自治体は自粛というストライク枠ギリギリに投げてきた。

日本国民の自主性、卓越した道徳観に頼ったというのが正直な印象である。

それ自体はさほど間違いではない。問題ないかなと思う。個人的には今年の3月から今現在の6月までの時期に一国の総理大臣や首都東京の都知事の役割を好んでやる人などいないだろう。何をしたところで批判ばかり浴びる。何かすれば批判される。何もしなくても批判される。どう行動しても批判される。前例のない非常事態に何がベストかは誰にも分からない。後から何がベストだったか、なら論じられるが。

別に当局よりになっている積もりはないが未曾有の危機に際して結果論で論じるのは端的に言って卑怯だ。

卑怯とは違うが違和感があるのが自粛を求められた人々の中で「自粛していない人」への反応だ。冒頭に書いた通り自粛とは自ら進んで行うことである。他人に強制されて行うものではない。

パチンコ店に対する営業自粛に関して自治体がいろいろ試行錯誤しているのは痛し痒しで双方の立場がそれぞれ言い分があってどちらに与するのも躊躇してしまう。

翻って一般市民が自粛を求めるのはどういうことだろう。国や自治体が国民や市民に自粛を求めるのは分かる。これに対し市民が自分以外の市民に自粛していないと非難したり批判したりするのは違和感しかない。ついには自粛警察なる言葉まで出てきた。

自粛とはあくまで行動するのは自分自身の判断で主体的に行うということだ。他人から強制されて仕方なくするという時点で強制になる。強制ならば法律や規則を適用すれば良い。出来ないから自粛という苦肉の策になったというのであればこの緩い方法らしく自粛する人と自粛しない人がそれぞれいてそれぞれを認めるしかないのではないか。自粛しないことの是非はともかく自分は自粛しているのにあの人は自粛していないと一般市民が他人を批判するのはどうかと思う。何か違うという違和感を覚えてしまう。自粛という罰を皆さん全員等しく平等に受けてくださいと言っているかのようだ。

心情的には理解出来る。ウイルスの拡大を防ぐには自分一人だけが行動しても周りが同じく協調してくれなければ意味が無い。なのでせっかく自分が自粛しているのに隣の人が自粛していなければ自分の努力も水の泡だと感じてしまう。それは分かる。しかしそう考える自分自身が誰からも強制されずに自ら行動するという選択をしていることを思い返して欲しい。実質強制されたと考えるならばそれはそれで構わない。しかし、自分が強制されたというのは心理的な強制で皆さんがやっているから自分も仕方なくやっているということでそれを自分以外の他人に強制して良いということにはならない。

そう考えるから自粛警察という行動(?)というか社会現象に対し違和感を覚える。

今の風潮を見て太平洋戦争の時代の空気というものを想像した。米英に対する敵愾心を露わにして戦争へと突き進んだ時代。同じ社会的空気に包まれていたのではないだろうか。「空気の研究」という本を手にしたのは学生の頃だが日本という国には一度ある方向に走り始めたら何をしても止まらない危険性を孕んだ「空気」が存在している。

今の「空気」もそうだ。三密は悪という前提でそれを避けることが絶対的テーマになっている。その前提自体に疑問を持ったり異議を挟む「空気」ではない。

映画を観るのが好きなのだが、戦後の昭和、平成の時代に作られた映画は太平洋戦争で一般市民は心ならずも戦争に駆り立てられたという設定があまりにも多い。本当にそうだろうか。国や政府の権力がいくら強く巨大でも一般市民の支持なしに容易に戦争へと突き進むことは不可能だ。やはり当時の日本国民の一般のコンセンサスとして戦争を是とする「空気」が間違いなくあったのである。

「空気が読めない」や“KY”も同じ日本の文化というか考え方から来ている。海外では意思表示ははっきりと言葉や態度に出すことが求められる。単一民族の日本という国では一つの文化、一つの人種という前提があまりにも当たり前と考えられ疑問を差し挟む隙間が全く無い。無いが故に「空気が読めない」人は非難の対象になる。「空気が読めない」のではなく違う空気を感じたりそもそもその空気を読まない、読みたくないと考えたり想像したりする人がいると認めることが期待出来ない。

今回の新型コロナウイルスの騒動に対し日本人の特徴を良くも悪くも感じここに書いた。批判はあるだろう。しかしこれが自分の正直に感じたことなので書いてみた。意見や考え方の違いをお互いに認め合う多様性がもっとこの国に根付いたらと切に願う。中国の様に一部の限られた支配層が動かす社会の方が効率は良い。しかし、効率を重視してきた結果が今の世界だと考えれば効率以外のものに重きを置く社会を目指す方がより安全でより確かであると思う。Diversityという言葉が単に掛け声に終わらない。そんな社会を目指したい。

逆説的に聞こえるかも知れないが新型コロナウイルスが現代にもたらした問いかけの意義は大きい。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?