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ヨーロッパ史の中の西アフリカ(オランダ独立編)

 以前の記事で述べたように、ガーナには海岸沿いにヨーロッパ人が建設した数十もの要塞があり、そのうち最も巨大なケープコーストのエルミナ城を初め、私の任地シャマにあるフォートサンセバスチャンなどはポルトガルが15世紀末に交易所として建設し、その後17世紀中ばにオランダに奪取されている。ポルトガルといえばインド航路を開拓することで香辛料貿易を独占、16世紀において世界を股にかける大海上帝国を築いた覇権国家である。最初に日本にやって来て南蛮貿易を始めたのもポルトガルであった。同じくオランダは17世紀に世界の覇権を握った国であり、アムステルダムは国際経済および金融の中心となった。鎖国後の日本で唯一交易を許されたヨーロッパの国でもある。それらの知識から、ガーナの要塞群の争奪戦はまさに世界で最も強大であった二国による覇権争いの一幕ではないかと思い、それらの要塞を取り巻く時代に興味を持ち、書籍を読んだのでここで報告する。

エルミナ城遠景




 この物語はオランダから始まる。現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクがある地域は低地諸国と呼ばれ、ライン川・マース川・スヘルデ川といった大河川の河口に位置し、古くから交易の重要な結節点であった。低地諸国は16世紀にはスペイン・ハプスブルク家の領地であった。

16世紀後半から17世紀前半の低地諸国の地図


 ところで、16世紀前半に始まった宗教改革は、それまでの西ヨーロッパの正統なキリスト教と見なされていたカトリックとは異なるルター派やカルヴァン派といった新教を生み出し、16世紀には低地諸国にも多くの新教徒がいた、特にカルヴァン派はその後のオランダ独立で多きな役割を担う。
 ところが、スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世やその跡を継いだフェリペ3世は熱狂的なカトリックの擁護者であり、次第に低地諸国内の新教徒に対して厳しい弾圧を加える。その政策に対し低地諸国内の多くの中小貴族が反発し、乞食党(ヘーゼン)と呼ばれたそれら貴族達の宗教的寛容性を求める活動は、スペイン当局によって厳しい取り締まりを受け、両者の対立は軍事衝突へと拡大していく。1568年に乞食党の中心人物であったオランイェ公ウィレムがスペインの支配に対して軍事蜂起を起こし、その後80年に及ぶオランダ独立戦争の幕が開ける。

オランイェ公ウィレム


 戦争の最中、1581年には低地諸国の北部7州が独立を宣言し、これが現在のオランダの元になる。その前年、1580年にスペインはポルトガルを併合し、ポルトガルの所有する莫大な海外植民地もまたスペインに帰属する。オランダは戦争中のスペイン・ポルトガルとの交易を制限され、両者が独占するアジアとの交易から締め出される。ポルトガルの海外植民地が実はほぼ無防備であったことが分かると、オランダは次々にそれらを奪取していった。これらのアジア海外植民地の拡大・経営を目的として1600年にオランダ東アジア会社が設立される。東インド会社はジャワ島のバタフィア(現在のジャカルタ)を拠点に東南アジアでの香辛料貿易を中心としつつ、1639年以降の鎖国後の日本との貿易を独占するなど 17世紀のアジアでの貿易で抜きん出た影響力を誇った。
 オランダ独立戦争は1609年にスペインと12年間の休戦条約を結び、オランダは事実上の独立を果たす。1621年に休戦が終わると、オランダはアフリカ・南北アメリカでのスペイン・ポルトガルの大西洋貿易を妨害しつつ、自ら大西洋貿易に参入する目的でオランダ西インド会社を設立する。西インド会社は大西洋を往来するスペイン・ポルトガル船を拿捕する海賊行為を当初から行いつつ、南北アメリカのポルトガルの海外植民地を奪取および新規に植民地を建設する。この時に北アメリカのマンハッタン島に建設されたニューアムステルダム植民地は現在のニューヨークの起源である。

スペイン船を襲撃するオランダ船


 さて、1624年にポルトガルから奪取したブラジル沿岸などの植民地では大規模な製糖業が営まれており、それらをオランダは経営する。当時の製糖業には莫大な人的資源が必要とされ、ポルトガルは西アフリカから輸送してきた黒人奴隷でまかなっていた。オランダはそれを踏襲し、かつポルトガルが独占していた奴隷貿易を支配するべく、1625年にエルミナを攻撃するも1,200人のオランダ軍が57人のポルトガル軍と200人のアフリカ現地人に奇襲を受け全滅し失敗、1637年に再度の攻撃によりエルミナを占領する。翌年にシャマにあったポルトガル人の砦を奪った。


オランダポルトガル戦争(1602年〜1663年)当時のオランダ(青)・ポルトガル(緑)の領土
1668年のエルミナ


 1648年にスペインとの和約が成立し、ここに80年に及びオランダの独立戦争は終結する。同年に最初の近代的国際条約として有名なウェストファリア条約でオランダの独立が国際的に承認を受けた。スペインは17世紀の前半にオランダとの戦争を含めたいくつもの戦争を抱え、さらにポルトガルも1640年にスペインから独立し、スペインの衰退は誰の目にも明らかであった。独立したポルトガルもオランダ・イギリス・フランスといった国々に海外植民地の多くを奪われ、かつての栄華は回復できなかった。オランダの独立戦争(80年戦争)はオランダの勃興と、スペイン・ポルトガルの衰退という覇権の移り変わりという意義を持つ。オランダがポルトガルの有する西アフリカの要塞群を奪ったのはその一場面であったのだ。

参考にした書籍
『物語 オランダの歴史』桜田美津夫(中公新書)2017

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