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妄想と欲望という名の夢か誠か 第十二話 ~新世界~(最終話)

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妄想と欲望という名の夢か誠か ~新世界~(最終話)


「ブス!  ブス!  ブス!……」
  加藤はまるで小学生のいじめのように、加奈子に向かって何度も『ブス』を連呼する。
  その言葉に、次第に正気と生気を奪われていく加奈子。切り裂かれた口元からは、血と唾液が混濁した赤黒い涎が、床に向かって垂れ下がっていた。

『わたしは、わたしは……ブ、ス……』
  今まで侵入した事の無かった異物が、彼女の脳内を駆け巡る。その異物に対しての免疫を彼女は持っておらず、真っ向からそれを否定する事も出来なかった。
「わたしは、わたしは、」
  無意識に心の声が漏れて出る。
「お前は、最低で最凶なブスなんだよ!汚ねえ顔と身体見せてんじゃねえよ!」
  そう言うや、加藤はナイフを持った手で、彼女の顔を殴り飛ばした。勢い余って、椅子もろとも吹き飛ばされる加奈子。強かに頭から床に叩きつけられ、頬の皮がベラりとめくれる。
「ひぃ!」
  彼女の身体は反射的に、その痛みに仰け反った。
  加藤は踵を返し、今度は幸夫の前に仁王立ちになる。
「ゆっきーくんよ!  そろそろおねむの時間だね」
  そう呟くと、幸夫の頭を掴み、彼の目の前に自分のスマホを突き付けた。幸夫の目には、先程のみさきちとみさ太郎のメッセージのやり取りが映り込んだ。
「ゆっきーくん、でも、起きるんだ!そして現実を受け入れるがいい!  あんたのみさきちは、警察に通報したいくらいに、あんたを嫌悪してたらしいよ。ほんとに、ほんとに、ゆっきーが大嫌いで、大嫌いで仕方なかった。アイドル引退すんの、あんたのせいかもよ!」
「ちが……」
「よく見ろや!  みさきちはこんなにお前が嫌いだったんだよ!」
  加藤は画面をスクロールさせて、ある画面を見せた。否応なしに視界に割り込んでくる、二人のやり取りに、幸夫は目を奪われた。
『この際、ゆっきーくんへの、不平不満や、ぶつけたい言葉を、ここに吐き出していいよ。この文面は絶対に公開しないから、安心してくださいね。全部僕が受け止めて、飲み込むから……』
『みさ太郎……あなたってなんていい人なの?  涙が出てきました。もっと早くあなたと出会いたかった……でも、回数や年月じゃないよね!  気持ちの問題!推してくれるその熱くて優しい気持ち、とっても嬉しいです!  本当にありがとう!大好きです……』

 画面に映し出されている二人の心の逢瀬に、幸夫の中に激しい『嫉妬』の炎が燃え盛る。
  幸夫は彼女への想い故に、何度も何度もスクロールが必要なほどの、熱い長文のメッセージを送り続けていた。しかし、彼女の反応はいつも端的で、一言だった。
『ありがとう』
『♡』
  本当にこの二パターンのみの返答で終始していた。正直、『会話』は成立していなかった。しまいには『既読』、或いは『送信しました』のみで、既読にすらならないパターンも数多く続いていた。
  それに比べ、みさ太郎とのやり取りはどうだ?
  その文面からは二人が『心』を通い合わせている事が、容易に読み取れる。下手するとみさきちの方が長文で且つ熱っぽい。彼女がこんなにまで優しくて、熱い言葉を使っていたなんて…… 一度たりとて、こんな言葉は掛けられた事はなかったのに……

  加藤はまるで幸夫の読む速度を理解しているかの如く、ちょうどいいタイミングで画面をスクロールさせる。

『ゆっきーくんへのほんとの気持ち、吐き出してごらん』
『マジでキモいんだよ!毎晩クソ長いメッセージ送ってくんな!  誰もお前なんかに心配して欲しくないんだよ!  マジで目障り!  お前さえいなければ、どんなに毎日楽しいか!  頼むから、私の知らないどっかのアイドルに推し変してよ!  うちの他の子もダメ!  とにかく存在消して!  あんたのコメントも、ギフトも本当にいらない!  消えて!  記憶の中から出てって!  私の人生に割り込んで来ないで!本当に生理的に無理!  あんたとなんか絶対に結婚しないし、子供なんて作らないし、付き合いもしない! それなら死んだ方がマシ!  ってか、何で私が死ななきゃならないの?  あんたが死ねばいいじゃん!  死ね!  死ね!  死ね!……』

  幸夫はもうそれ以上、その続きを読む事が出来なかった。まだまだ、みさきちの彼への罵詈雑言は続いている。しかし、その棘と猛毒に覆われた言葉を、もう飲み込む事は出来なかった。

「いい顔するね!  あっ!ぁあ!」

  加藤は慌てふためいたかのように、幸夫を椅子ごと倒して、加奈子と横並びにさせた。そしてナイフを投げ捨てると、ズボンのベルトを外し、そそり勃つ巨大な肉棒を剥き出しにする。
「ブス!  死ね!  ブス!  死ね!……」
  その言葉を交互に加奈子と幸夫に吐き捨てながら、加藤は己の肉棒をしごき始めた。
「ブス!  死ね!  ブス!  死ね!……」
  その言葉に身も心も壊されていく加奈子と幸夫。失血も相成り、二人の顔色は土気色から青紫に変容していく。そして頬を伝う雫も乾き、枯渇していく。

「ブス!  死ね!  ブシュ、あ!  ああっ!」

  加藤の声が叫び声に変わる。と同時に、一緒に並べられた加奈子と幸夫の顔に、激しい異臭を放ちながら、尋常ではない程の量の白濁した粘液が、放物線を描きながら放出された。
「ああっ、はぁはぁ……」
  まるで女性のような喘ぎ声を漏らしながら、激しく腰を痙攣させる加藤。
「ああっ!」
  身体を仰け反らせ、肉棒を天に捧げる。そして、一度では飽き足らず、二度目の絶頂が彼を蹂躙し、その申し子達は天高く舞い、加奈子の口元へ堕ちた。それは先程以上に濃く、無駄な水分は排斥され、加奈子が顔を動かしても、彼女の口元にへばりついたまま、微動だにしなかった。

  薄暗い教室は、栗の花の匂いで充満する。
  当の加藤は余りにもの悦楽に、イキ果てたかの如く、身体をくの字にしたまま、びくびくと腰を痙攣させ続けている。



『んな、 いだ!    ねばいいのに……』

  加藤が欲望を満たして数秒?  数分?  一瞬で永遠の時を隔てた後、その声は三人の耳にはっきりとこだました。

  「ぎゃあああ!」
   と、同時に、加藤の叫び声が教室内にこだまする。

「おんめぇ! よくも、うちの幸夫に怪我させたな!」
  加藤の背後には、血だらけのナイフを手にした雅樹が立っていた。
 

 


雅樹は、あの声と白い靄に導かれ、廃校と化したこの旧校舎に辿り着いた。降りしきる雨の中、校庭に侵入すると、どこかで見たことのあるワゴン車が、視界に入って来た。
「この車は……」
  遠い記憶を振り返るようにして、記憶の糸を辿る。
「!」
  このワゴン車は、ライフガーデンの駐車場で、彼を引きそうになった車だ!
  雅樹の中で、散らばっていた欠片が少しずつ集まり始めた。
『この校舎の中に幸夫がいる!』
  それは確信に変わり、彼を執拗に急かした。
  そして、まるで申し合わせたかのように聞こえ出す、誰かの叫び声。それに導かれ、雅樹は歩を早める。

  そしてたどり着いたのは、四年一組の教室。  幸夫が当時通っていた教室だ。
  恐る恐るドアを少しだけずらし、中の様子を伺い見る。
「!」
  彼は目の前の惨状に絶句する。血だらけの幸夫と見知らぬ女、そしてそれを支配するかのように鎮座する、謎の男。
  その光景に彼は反射的に身体が動いた。
  男の後ろに投げ捨てられていたナイフを掴み取ると、もはや無意識にその男の背中を切り裂いた。
「誰だ! てめぇ!」
絶頂の余韻に微睡んでいた加藤は、突如鳴り響いたアラートに、不快感を露にした。
「お前こそ誰だて?  なんでこんな事やってんだ! 畜生が!」
加藤は未だはち切れんばかりの肉棒を急いでしまい込むと、立ち上がって臨戦態勢を取った。
「やるがか?」
「てめぇみたいな老いぼれに、負ける訳がない!」
  イキがる加藤を前に、雅樹は手にしていたナイフを放り投げた。
「いいのかよ?  後で後悔しても知らねえからな!」
  殺気立つ加藤。
「こちとら、拳一本で成り上がって来たで、お前みたいなヒョンたれとは、年季が違うで!」
  かつての自分に火が点いた雅樹。バランスよくつま先で相手との距離とリズムを測る。
「ふざけんな!」
  狂犬と化した加藤は、その間合いを取らせないように、一歩踏み込んで雅樹に殴り掛かる。その度に雅樹はほんの数歩のステップで、それを交わす。
「てめぇ!」
 大振りに拳をかざしては、寸で避けられる加藤。
「逃げてばっかいねえで、かかってこいや!」
  苛立ちに態度が豹変する加藤。撃ち込む打撃は空を裂くばかりで、一発たりとも雅樹を捉える事が出来なかった。
「ほいだら遠慮なく!」
  言うや否や、一歩踏み込んで、鋭く重いパンチを加藤の顔面に叩き込む。その衝撃に、数歩後ずさり、頭を振って態勢を整える加藤。  その時点で唇からは血が滲み出て、口に流れてくるそれを加藤は吐き飛ばした。
  尚も猛襲を繰り広げる加藤の拳。それを軽やかで無駄のないステップで交わし、その最中に撃ち込む雅樹。その都度鼻、瞼、額から血が滲み出し、瞬く間に加藤の顔は血だらけになった。
「ふ、ふざけんな……」
  荒い息の中、吐き捨てる加藤。
「ふざけてんのは、お前だろうが!」
  数歩踏み込んだ雅樹の連打が、加藤のみぞおちに炸裂する。
「うげっ!」
 その衝撃に、加藤は吹き飛ぶように身体が浮き、後方に倒れ込んだ。すかさず馬乗りになる雅樹。
「よくも!  よくも!  うちの幸夫をこんな目にあわせてくれたな!」
  般若の形相で加藤を睨みつけ、怒りのままに雅樹は拳を彼の顔、首、頭に叩き込んだ。
「クソが!  クソが!」
   積年の恨みを晴らすかの如く、無心に拳を振り続ける雅樹。もう、加藤は抵抗せずにぐったりとしている。それでも尚、叩き込む雅樹。最後の一発が加藤の歯に当たり、雅樹の拳を切り付けた。
「痛え!」
  その痛みに我に返った雅樹は、その拳を納めて、倒れ込んでいる幸夫と女の近くに駆け寄った。
「幸夫や!  幸夫!  大丈夫かえ?  生きとるでか?」
  返事をしない幸夫。焦って身体を揺さぶるも彼は黙ったまま。深呼吸をしてのち、幸夫の口元に耳を近づける。そこからはごく浅くではあるが、規則性のある息遣いが聞こえてきた。
「待ってろや!  今、助けるで!」
  そう言って、もう一人の女の方へ視線を向ける。
  「姉ちゃん! 大丈夫だか?  聞こえるがか?」
  加奈子はその声に安心したのか、浅い息と共にわずかうなづいて見せた。
「二人とも安心せい!  俺が絶対助けるで!」
  雅樹は、幸夫を抱き抱えると、加奈子にも手を伸ばし、立ち上がらせ、自分の肩にもたれかからせた。
「姉ちゃん、ゆっくりでいいでな」
  優しく言い聞かせる雅樹。
  三人はそのままゆっくりと、教室を出ていく。とにかく今はこの場所を離れ、安全な場所に避難することが先決だ。
  およそ自分の倍の体重はあるであろう幸夫を抱き抱え、女性に全体重をもたれかかられた雅樹も、流石に息があがる。目の前に広がる真っ暗な廊下が、出口の無いトンネルにさえ見えた。
「もう少しやで、頑張れ!」
  二人に言うようにして、自分にも言い聞かせる雅樹。


 『  んな、 いだ!    ねばいいのに……』
  再度耳に流れ込むあの声。雅樹は後ろを振り返ると、そこには顔面がボコボコに腫れ上がった加藤が、ナイフを持っていざ、飛びかかろうとしていた。
「危ない!」
 雅樹は咄嗟に女を突き放し、幸夫もろとも廊下に倒れ込んだ。
  大きく空振りをした加藤は、そのまま廊下に転倒するも、まるで機械のように立ち上がって、またもや雅樹目掛けて飛びかかる。
  幸夫に押し潰されそうになっていた雅樹は、そのナイフの切っ先が幸夫に当たらないように、咄嗟に反転して身構えた。
「痛ぇなぁ!  クソッタレが!」
  ナイフの切っ先は運悪く雅樹の脇腹を貫通する。雅樹は幸夫から離れて、そのナイフを引き抜く。と、同時にドクドクと血が溢れ出した。と、その刹那、加藤が飛び掛かり、雅樹の上に覆い被さった。
  「うげぇ!」
  牛のような声をあげ、加藤は雅樹の顔に大量の血を吐き付けた。そして、じんわりと温かい何かが雅樹の腹部辺りに零れ出し、瞬く間にそれは床一面に赤い絨毯を敷き詰めた。

加藤が飛びかかった刹那、雅樹が引き抜いていたナイフが、運悪く加藤の腹部を貫通していた。そして、それを押し込むようにして、雅樹の身体に密着してしがみつく加藤。
  加藤は覆い被さったまま、雅樹の頭を押さえ込み、まさに唇と唇が触れる、その寸前で囁いた。
「後で後悔するって、言ったでしょ……」
  おどけた口調でそう囁くと、加藤は一度にっこり微笑んで、そのまま雅樹の腹上に堕ちた。

「おい!  おい!」
  雅樹は、加藤を跳ね除けてから、彼の口元に耳を傾けた。そこからは虫の息さえもなく、何も聞こえて来なかった。
「ちっ!」
  雅樹は舌打ちをすると、自分の脇腹を押さえ込みながら、立ち上がった。
 痛みと失血に目眩を起こし、その場に一度立ち尽くす。押し寄せる狭窄の波を乗り越え、雅樹は一歩を踏み込む。
『二人を助けなければ……』
  雅樹はその一心で、一歩ずつ踏み込み、加奈子と雅樹を引き摺りながら、出口を目指す。
『あと少し、あと少し』
  心の中で何度も叫びながら、校庭に続く渡り廊下までたどり着く。その一瞬の安堵に、彼は段差で足を踏み外し、頭もろともその場に倒れ込んだ。
  強かに頭をコンクリートに打ち付け、自分の耳元から、温かい何かが流れ出したのを感じる。

『んな、 いだ!    ねばいいのに……』

  狭窄の嵐が彼の頭と身体を襲うのと同時に、その声がまた彼の耳に届いた。薄れ行く意識の中、彼の眼前にはここまで彼を導いたあの白い靄がまた現れる。そしてそれは凝縮し、少しずつ色と形を形成していく。やがてそれは人の形になり、まっすぐに雅樹にその視線を投げかける。雅樹はギリギリの意識の中、その視線に応える。するとそれは少年のような顔を摸し、彼に微笑みかけた。
  そして雅樹もそれに応えるように、微笑み、頷き返した。

  少年との意志の疎通を終えると、誰が呼んだのか、パトカーのサイレンの音が、雅樹の耳に流れ込んで来た。ほんの一瞬それに気を取られると、目の前に居た少年の姿は消えてなくなっていた。そして三度目の狭窄が彼を襲い、そして雅樹の視界は暗闇に包まれた。





  数週間後。
  篠田はまっ昼間から、リビングでウイスキーを煽り続けていた。
『これで、いいんだて……これで……』
  まるで自分を言い聞かせるかのように、胸の内につかえている何かを、ヒリつくアルコールで誤魔化し、なだめすかし、飲み込もうとしていた。


「続報です。先日N市で発生した痛ましい事件。容疑者である西川雅樹、山本幸夫、小谷加奈子三名は共謀し、被害者である加藤航平氏を脅迫していた模様。加藤氏は製鉄業界のトップでもある堂和興産の社長取締役でもある加藤仙蔵氏の一人息子でもあり、加藤氏自身も会社を経営し、まさに株式上場を目の前に控えていました。しかしそれ以前に小谷容疑者と知り合い、加藤氏は既婚者でありながら、男女の関係を築いていた模様。そして株式上場のタイミングを狙って、小谷容疑者ら三人は、その一件を餌に加藤氏に多額の現金を要求。しかし、加藤氏はその要求に応じなかった為、容疑者達との言い争いに発展し、今回、命を落としてしまうという、結果に至った模様です」
「そもそも、この三人は以前から同じような手口で、あらゆる企業の経営者から、かなりの現金を搾取しており、警察は余罪も視野に入れて、捜査を開始しました」
「速報です!ただいま入った情報に寄りますと、今回の事件の首謀者である西川雅樹が、心不全により先程、息を引き取りました!」

  リビングのテレビでは、加藤、幸夫、加奈子、そして雅樹が関与した、あの晩の事件の真相について、徹底討論を放送している。突然の雅樹の訃報に、番組出演者達はザワつくが、誰一人として哀悼を口にする者などいなかった。
「彼の余罪はこれから紐解かれるでしょう。悪人には逃げ場所はありません!  断固として、裁かれるべきです」
  番組の出演者は、会ったことも見たこともない、机上の犯罪者に、正義の言論を叩きつける。その眼差しはまさに岩をも貫く鋭さだ。

  篠田は涙を抑えきれずに、再度グラスを煽る。
「雅樹や!  だから言ったでな!  これ以上首さ、突っ込むなやって! なんでお前まで……」
  かつての教え子の不祥事に、彼は後悔と罪悪感に飲み込まれた。しかし、このN市を守る為には、致し方なかった。市民の大多数を犠牲にする訳にはいかない。誰かの小さな犠牲で片付くのであれば、それが最善策。しかし、篠田も一人の人間。守りたくても守れなかった教え子達。
「ああああ!」
  言葉にならない声で呻く篠田。
  そして、更に彼は酒に溺れるのであった。


  とある高級会員制のバーでも、同じ報道番組が流されていた。まだ、夕方前。仕込みの為に、出勤したスタッフ達は、きびきびとそれぞれの職務を全うしていた。
  その最中、カウンター席では、恰幅のいい初老の男性が、年代もののワインに舌鼓を打っていた。

「潮田君、あの日の防犯カメラの映像や、愚息の痕跡は消してくれただろうね?」
「加藤社長、仰せの通りに処理させていただきました」
  あの日、加藤を見送ったスタッフが粛々と頭を下げた。
「潮田君、いいかね? 世の中はイメージで出来ている。言わば 我々は被害者だ。大切な息子を奪われた家族であり、大切な経営者を失った発展途上の企業だ。しかし、清廉潔白という訳では、出来過ぎた話だ。光ある所に影あり。メリットと共にデメリットも存在し、我々はその中でどれだけリスクを軽減し、甘んじて受け止め、世の賛同と同情を勝ち取るか、そこが肝要である事を、肝に銘じておきなさい。私は、君を信頼している。私を哀しませないでくれるかね?」

「滅相もございません」
  男は深々と頭を下げる。
  店内は、軽快なジャズの音楽のリズムに合わせて、スタッフたちの掛け声や、野菜を刻む包丁の音、フライパンの上で新しい姿に生まれ変わる素材達の息吹が、来るべき華やかな夜を想起させた。


「なんで、こんなブサイクな女に、みんな騙されたんだろう?」
「大企業のトップともなると、ただ綺麗なだけじゃダメなんじゃない?」
「アブノーマルな趣味にでもなっちまうのかね?」

  世に報道された、今世紀最大の悪女『小谷加奈子』について、世間はその容姿についてにわかに盛り上がっていた。
  ほつれた髪に、やつれて落窪んだ眼孔。ギスギスに痩せて、粗れ果てたガサガサの素肌。
今世間を賑わしている『小谷加奈子』は、お世辞にも『美』とは真逆だった。そしてその話題はネット民達の恰好の餌食となった。数々と垂れ流される誹謗中傷。本人の居ない所で、捏造される猥雑なデマの嵐。しまいにはAIで加工された猥褻な動画まで溢れ出す始末。しかし、そんな俗世とは絶縁した加奈子は、もはや無敵だった。

『今日は、坂本社長と食事の約束してるの』
  無機質で真っ白な壁で囲まれた部屋に閉じ込められた彼女は、毎晩そこで坂本社長との逢瀬に身を投じていた。
  彼女はあらゆる過去を隔てて、やっと本当にに『好きな人』が出来た。しかもそれは相思相愛。そして、それは誰にも邪魔されない。
  ずっと二人だけの世界が、永遠に続くのである。
  鏡の無い部屋で、しきりに化粧で、今までのように『美』を表現する加奈子。口紅は大きく口元からはみ出し、ファンデーションは粉を吹いたように肌の上で玉になり、チークは殴られた跡のように、それぞれが彼女の顔をキャンバスにして、主張をし続ける。
『加奈子さん、綺麗ですね』
  それでも尚、坂本は少年のような眼差しで彼女を見つめる。
「あら?  みんなにそんな事仰ってるのでは?」
『やだな……加奈子さん……あなたは意地悪だ』
「ふふふ……」
 誰も居ないその部屋で、微笑む加奈子。そして思う存分に爪を噛む。きっと彼女は今、本当の幸せを手にしたのであろう。




「ゆきちゃん、これ、あんたが毎月買ってた雑誌だて!  ほら、あんたが大好きじゃったアイドルがいっぱいじゃて」
  母親は、涙ながらに雑誌を広げて見せた。
  透明な板越しに、幸夫は顔も上げずに俯いたまま。天然でクリクリだったくせっ毛も、短く切り揃えられて、可愛いはずの幸夫が、母親は不憫でならなかった。
「今度また、先生に相談して、助けて貰うようにするでな! もう少し待っててね!」
  やつれ果てた母親は、懸命に息子に訴える。しかし、息子は俯いたまま。
「お母さん、もう時間ですので」
  幸夫の背後に控えていた刑務官が、その場を遮る。
「ゆきちゃん!  待っててな!  絶対お母さんが助けてやるでな!」
  母親の悲痛な叫びを背中に浴びながら、幸夫は面会室を刑務官と一緒に退室する。
「チッ」
母親の声は、彼にとってずっと騒音だった。
  それは今でも変わらない。居場所が変わっても、そこ騒音は彼に付き纏った。

  程なくして、母親が届けてくれた雑誌類が、彼の元に届けられた。幸夫は無表情のまま、それらに目を通す。もはや光を失った彼の予後は、ただひたすらに生きるのみ。何も希望も、ましてや哀しみもそこには存在しない。
  ある意味、こうやって見知らぬ罪で拘束されたのも、何かの測らいかも知れない。ここには寝る場所と、臭いけれど三食ご丁寧に食事まで揃っている。見えない何かに抗うより、受け入れる方が無難だった。
  そして、先日雅樹の訃報を知った。しかし、何も心は動かなかった。母親同様に、雅樹の存在も彼にとってはノイズでしかなかった。
  その雑音がひとつ減っただけ。ただ、それだけの事だ。

  そして、幸夫はあるページで、その手を止めた。
  そこにはある記事がデカデカと掲載されている。
『アイドル事務所社長、育てたアイドルとデキ婚!』
  まるで悪事のような書き出しの記事だが、よく読めばその懐妊を祝う記事。そこには仲睦まじく肩を寄り添い合う、坂本社長とみさきちこと、藤本もとい、坂本美咲の姿があった。よく読めば、みさきちが坂本に恋焦がれて、ずっとアタックを仕掛けていたらしい。その猛アタックに、坂本も根負けして、交際を開始。そしてまもなく彼女は坂本の子を身篭り、引退を決意。今は卒業ライブも終了し、二人で結婚の段取りを進めて居るという。

「はははは……」
  幸夫は急に笑い出した。笑わずには居られなかった。
「おい! うるせぇ!」
  同じ部屋の一人が警告する。それでも尚、幸夫は笑う事を止めなかった。そして、幸夫以外の屈強な男達が彼に飛び掛かり、彼を羽交い締めにする。されるがままに幸夫は、その場に押さえつけられ、強かに顔や腹部を蹴りつけられる。
「おい!  顔はやめとけ!  バレるとめんどくせぇ」
  男が一人口走る。そして皆、一斉に幸夫の腹部を蹴りつける。幸夫は抵抗せずにそれを受け入れる。鈍い痛みと、激しい嘔吐感が彼を襲う。
  男達の足と足の隙間から、雑誌のさっきのページが彼の目に飛び込む。そこに掲載されているみさきちは、間違いなく、彼を笑っていた。




  痛ましい事件を経て、N市はまた平静を取り戻しつつあった。
  過去に市民を震撼させた三件の殺人事件も、新しい証拠が芋づる式に浮上して、雅樹、幸夫、加奈子が引き起こした事件として、一先ずの落着を得た。無論、雅樹の妻である千夏、幸夫の母親には、冷たい視線と、罪を糾弾する声が溢れかえった。その中で、どれだけ彼女達が声をあげたとて、それは泡となって消えていった。

 

N市の中心には二十四時間動き続ける、堂和興産の工場が鎮座している。
  この工場が、このN市の人々の生活を支え、過疎地となりかけたこの場所を、あらゆる企業、人材が流入する場所になる迄に回復、発展まで押し上げた。そしてまた、新しい工場が山を切り開き、建設予定である。そこに人が集まり、企業が参入し、またこのN市を発展へと導く。  
 当初は騒音と忌み嫌われた工場の操業音も、今となってはこのN市の息吹であり、息遣いとなった。
  そのたもとで、あらゆる音が産声をあげる。
  しかし、それは工場の巨大な音の前では『音』ではなくなり、いつの間にか消えてなくなっていく。

  とある八月の真夏日。
  太陽は燦々と降り注ぎ、今年最大の猛暑だと、ニュースでも報道された。
  そして、そんな猛暑の中でも、工場のその『音』は、力強く鳴り響いている。
  まさにそれはこのN市の鼓動。
  これからも力強く脈動し、生き続ける。あらゆる『音』を吸収し、発展し、来るべき『新世界』への扉になるだろう。もとい、もう、その『新世界』は到来し、N市は今、まさに飛び立たん!


#ミステリー小説部門

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