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腫瘤

「やった! マジで?!」

一哉は降って湧いた幸運に狂喜した。

たまたま仕事帰りに寄ったスーパーで、たまたま引いた福引がなんと特賞!

その賞品はなんと、およそ10万円は下らない高級掃除機。引っ越してからこっち、新しい掃除機を買いなおそうかと思っていた矢先に、願ってもない幸運。妻、加奈子もきっと喜んでくれる筈だ。

一哉と加奈子は結婚を機に、今まで同棲していたアパートを引き払い、念願のマイホームを手に入れた。戸建て販売の中古住宅だったが、程度も良く、何よりも値段の安さに、二人は即決した。最寄りの駅から少し歩くのが難点だが、実際歩いてみるとそこまで苦痛には感じなかった。それを差し引いても余りある幸福感が、「マイホーム」にはあった。


一哉は調子に乗って、加奈子の大好きなアップルパイとワインも購入し、ほくほく顔で家路を急いだ。


丁度自宅の前の通りに差し掛かった時、後方からカラカラと、油の切れた自転車を漕ぐ音が聞こえてきた。一哉はそれに気づかない素振りで受け流そうとする。しかし背後で鳴り響く急ブレーキの音にそれはかき消された。

「あいたたた……」

後ろを振り返ると、隣に住む菅生が、チェーンの外れた自転車の下敷きになって倒れていた。


菅生は近所で「変人」として評判の初老の男性だ。皆、彼とは距離を置いており、一哉もその一人だった。特に隣同士ゆえ、当たり障りのないように、軽く会釈をする程度。極力関わり合いにならないように注意していた。


「だ、大丈夫ですか?」

致し方なく一哉は持っていた荷物を地面に置いて、菅生に駆け寄った。

「あぁ、すみませんねぇ……」

倒れた菅生を起こして座らせると、ツンと酒臭さが一哉の鼻を突いた。

「う……」

併せて吐き出されるヘドロのような口臭に、一哉は顔をしかめた。

「あ、あれどうしたんですか? 買ったんですか?」

そんな一哉を差し置いて、菅生は道路脇に置かれた掃除機を指さした。

「あ、あれは福引で当たって……」

「どこの福引ですか?」

「いや、その、駅前のスーパーのダイシンです……」

「ダイシン! 私もあそこ、よく使うんですがね、福引があるなんてね、誰も教えてくれませんでしたよ……」

呂律も回っていないのに嬉々としてしゃべり続ける菅生。

「私も欲しいなあ、掃除機。明日、私も福引やってみよう!」

菅生は勢いよくそう言うと、急に立ち上がって、また自転車に跨った。そして足で地面を蹴りながら、一哉の前を去って行った。


「酔っ払いが……」

つい、舌打ちをする。ほんのわずか言葉を交わしただけなのに、菅生のおかげで不快な気分に様変わりだ。一哉は溜め息をつきながら、今一度荷物を抱えて、家路を急いだ。



翌日。

夜の9時過ぎ。

夕食も終わり、一哉と加奈子は昨日食べきれなかったアップルパイを、ワイン片手に楽しんでいた。

一哉が最後の一切れを口に運んだ瞬間、インターホンと玄関を激しく叩く音が聞こえた。

「あ、俺が出る」

出ようとした加奈子を遮って、一哉は口をもごもごさせながら玄関に急いだ。

そして怒号のように鳴り響くインターホンに苛立ちを覚えながら、ドアを開くと……

「あ! 夜分にすみませんね! でも、おたく、昨日私に言いましたよね? え、駅前のスーパーで掃除機の福引やってるって!」

そこには怒りを露わにした菅生が立っていた。昨日同様ヘドロを思わせる口臭と酒臭さを撒き散らしながら、必死に喚きたてている。

「それがどうしたんですか?」

鬱陶し気に問い返すと、菅生は更に牙を剥いた。

「私はおたくを信じて、さっき行って来たんですよ! スーパーにね! そして酒とつまみと買って、レジに並んで、お金払って、でも誰も福引の事なんか言わないんですよ! もう我慢ならなくてね! レジの女の子捕まえて聞いたんですよ! そしたら昨日で終わったって言うじゃないですか! どうしてくれるんですか?! 私は掃除機が欲しかった! おたくはその気持ちを裏切った! いや、騙した! 詐欺ですよ! 詐欺罪!」

尚も喚き続ける菅生。前髪は汗で額にへばりつき、唇には白く濁った唾を湛えながら、彼は怒りに打ち震えていた。

「そんなことを言われましても……」

「なんて無責任だ! じ、自分だけいい思いをして、後は知ったこっちゃ……」

もはや何を言っているのか分からない程に、菅生は捲し立てる。もう埒が明かない。

「警察呼ぼうか?」

背後で不安そうに加奈子が呼びかけた。一瞬考えた後、それを遮る意味で一哉は右手を上げた。酒も入ってる事だし、今日の所はあまり事を荒立てない方がいいだろう。なにせお隣さんだ。下手すると毎日顔を合わせる事になる。そう思い、一哉は声を上げた。

「菅生さん、お気持ちも知らずにすみませんでした。僕も不用意な発言をしたのかも知れません。そこはお詫びします。ただ、今日はもう夜遅いですし、菅生さんもお忙しい方でしょうし……」

一哉は不本意ながらも頭を下げ、菅生が帰ってくれるように、再三謝罪を述べた。


「ほんとに、いい加減にしてくださいよ! こっちも暇じゃないんだから!」

意味の分からない言いがかりを、言いたい放題捲し立てた菅生は、最後にそう吐き捨てると、玄関のドアを叩きつけて帰って行った。

「はあ……」

怒り以上に疲れ果てた一哉は溜め息をついた。

「大丈夫?」

心配そうに駆け寄る加奈子の表情には、一哉の対応に少し不満と不安が見え隠れした。それを踏まえたうえで、一哉は加奈子に微笑んだ。



翌朝。

今日は朝一から会議だ。多少なりとも戦う準備する為に、いつもより早い時間に一哉は玄関を飛び出た……

途端に目に入ったのは菅生の姿だった。

「お、おはようございます……昨晩は、どうも……」

一哉の挨拶に微動だにしない菅生。服装も昨日のままだ。よもや一晩中玄関先に立っていたのか?

「き、昨日は、す、すみませんでした……」

菅生の口から出たのは意外な言葉だった。

「本当に掃除機が欲しくて……」

駄々っ子の言い訳のように、歯を食いしばりながら謝罪する菅生。

「あ、いえ、お気になさらず……すみません、僕、急ぎますので……」

遮る菅生を避けるように、一哉は道路に躍り出た。

「待ってください! 私の話はまだ終わっていません!」

追いかけて来る菅生。

「すみません! 本当に急いでるんで!」

一哉は逃げるようにして、駅までの道を駆け抜けていった。駅に辿り着いてやっと後ろを振り返ったが、そこには菅生の姿はもうなかった。

「ほんとにおかしな人だ……」

そう言いつつも、脚が震えている自分に、心の中で舌打ちをした。



それからというもの、菅生の奇行はまさに常軌を逸し始めた。

一哉が新しく車を購入すれば、同じ車を欲しがって、金も無いのにディーラーに押し掛けて一悶着起こす始末。スーツを新調すれば同様に、テーラーに駆け込む始末。その度に一哉の名前を出すので、方々で一哉は頭を下げる羽目に……とにかく一哉が手にする物全てに興味を示し、それが欲しいと駄々をこねる始末。それに加えて、手に入らない怒りを一哉にぶつける顚末。


そして……


その日は緊急会議が入り、一哉たちは朝から慌ただしく動き回っていた。

いざ、会議に入ろうとした矢先、胸元の携帯が鳴動した。一哉はそっと着信相手を確認したが、見た事のない番号だったので、そのままスルーした。


白熱する会議に比例して、鳴動し続ける携帯。致し方なく、休憩時間に再度確認すると、おびただしい着信と、留守録が表示されていた。その留守録を再生する。

「なんで! なんで電話に出ないんですか? 私たちは常に……」

電話の声は菅生だった。もはや怒りと哀しみがない交ぜになっており、何を言っているのかさっぱり分からなかった。しかし……

「私ね、結婚もしたかったんですよ! そういえば加奈子さん? 綺麗ですね……私の初恋の……」

「おい! 行くぞ!」

上司の声で菅生の声は遮られ、断腸の思いで一哉は会議室に飛び込んだ。



会議が終わると一哉は、すぐさま加奈子の番号をタップする。

『出ろ! 出ろ!』

思いも虚しく、留守電サービスに繋がる。不安が頂点に達し、一哉は職場を飛び出した……





菅生信夫。

彼は憂ていた。世の無慈悲な理に。

齢60を前にして人生を振り返る。

その大半は羨望と我慢の連続だった。彼が『欲しい』ものは常に誰かが占有している。一度たりとて願ったものを手にする事は出来なった。常に誰かに横取りされ、彼が手を伸ばした時点で、もう、それはそこにはない。彼の人生を彩る筈のあらゆるものが、常に誰かに搾取されている。そんな人生はもうまっぴらだ。そして、搾取していった者達が平然と幸せに暮らしている現実が、心底許せなかった。

そんな理不尽な世の中に、彼は反旗を翻す。

欲しいものを欲しいと願って何が悪い?

欲しいものを手に入れる為の努力をして何が悪い?

そして思い知らせてやる。心の底から願い求めたものが、他の誰かに搾取される悔しさと、その屈辱を……


菅生の目の前には、結婚相手の加奈子が座っている。本来いるべきではないお隣さんから、先程奪い返してきたところだ。加奈子はそもそも素直な女ではなかったので、彼の出迎えを執拗に拒んだ。それに併せて暴れて逃げ惑うので、致し方なく後頭部を殴打せざるを得なかった。少しだけ心は痛んだが、二人の幸せの為だ。暴力も優しさの一つ。


菅生はまだ目を覚まさない妻の頬を、そっと指で撫でた。ハリのある艶やかな肌が、彼の指に染み込むかの如く吸いついて来る。

およそ30歳程、歳の離れた二人は、きっと巷では評判の夫婦になるだろう。そして道行く男達は、目の覚めるほどに美しい加奈子に目を奪われ、そして夫である菅生に対して、羨望の眼差しを送るだろう。その男達の悔しがる表情が目に見えて、菅生はにやつきが止まらなかった。

そして、吸い寄せられるように、妻の唇に自分のそれを押し当てた。それは淡い果実の如く甘酸っぱく、それでいて媚薬のように止めどない欲望を菅生に掻き立たせた。


陽が沈み始めるころ、菅生は妻と重ね合った体を一度だけ離して、渇いた喉を水で潤わせた。その間でさえ加奈子の肌は菅生を欲していた。その声に応えるように、菅生は顎に水を滴らせつつ、妻の下に舞い戻った。そして今一度彼女の肌に触れようとした、その時だった。


「菅生さん! 菅生さん!」

誰かが玄関口で大声を張り上げている。しかも玄関をこじ開けようと、乱暴に鍵口を叩き始めた。

「加奈子! 無事か?」

その男の泣き叫ぶ声に、菅生はほくそ笑んだ。

と、途端に玄関の引き戸のガラスが割れる音がして、男が部屋の中に侵入してきた。菅生は妻を護る為に台所の包丁に手を伸ばした。



一哉は菅生の家に圧し入ると、廊下の血の滴りに気づいた。

「加奈子!」

ゴミだらけの廊下を押し進み、いざリビングへと入る。そして……


そこには椅子に縛り付けられ、半裸にされた加奈子がぐったりとうなだれていた。

「加奈子!」

急いで加奈子の下に駆け付け、安否を確認する。

その肌は冷え切っており、生気を失っていた。うなだれた頭を起こそうと、後頭部に手を伸ばすと、半渇きの血の塊が纏わりついた。

「加奈子……」

呆然とする一哉。目の前の光景を受け入れられずに、後ずさる……


「!」

と、失意も束の間、鋭い痛みが彼の右肩を襲った。激痛の中振り返ると、包丁を振りかざす菅生が居た。

「お前! 加奈子に何をした!」

押し寄せる怒りに痛みも忘れ、一哉は菅生に飛びかかった。その拍子に菅生の手から包丁が弾け飛び、二人は部屋中のゴミと家具とをない交ぜにしながら、もつれあった。

「妻は渡さん!」

「何が妻だ!」

菅生に馬乗りになった一哉は、何度も拳を菅生の顔に叩き込んだ。しかし菅生も、先程斬り付けた一哉の肩に指を食い込ませる。

「ぐわあ!」

痛みにのけ反る一哉。すかさず包丁に向かう菅生。

「妻は永遠に私のものだ!」

菅生は半狂乱で包丁を振り回しながら、一哉に突進する。その切っ先を寸でかわし、一哉は菅生の手首を掴み、その矛先を彼に向け、押し付ける。

「妻は私の物だ!」

菅生はそう呟くと、笑みを浮かべ、抗う力を緩めた。途端、切っ先は菅生を貫いた。そして菅生はなだれ込むように加奈子の元へ駆け寄り、朽ち果てた。


一哉はせせら笑い、その場に座りこむ。

目の前には抱き合うように重なり合った、菅生と加奈子の死体。まるで二人で旅立ったかのように、一哉に見せつけているようだった。



そして菅生は死してなお、妻の亡骸を抱きしめる力を緩めようとはしなかった……





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