社長が店にやってくる
⭐️あらすじ⭐️
立花理瀬はチェーン量販店「ラックスマートK店」の副店長を務めていた。K店は会社の資金十億を使って全面改装したものの、業績は振るわなかった。そんなK店に社長が視察に来ることになった。理瀬の上司である碇冬司は、視察に至った原因を理瀬の責任にする。社長の親友であり、クレーマーの火野に対して、理瀬が失礼な態度をとったせいだと言う。
火野は社長の幼ななじみであり、小さな文房具会社を経営していた。社長の親友であるという立場を利用して、自分の会社で作っている文房具を、ラックスマートに事務備品として納品していた。
一方、K店の近隣店舗で副店長を務めている香田祐司は、猫店長というあだ名の今川敏夫から視察の情報を得る。今川は、社長がK店の視察をするついでに自分の店にも立ち寄る可能性を祐司に示唆した。
果たして、理瀬と祐司はそれぞれ副店長としての責務を果たすべく、視察対策に奔走することになる。
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【プロローグ】〜2008年8月8日午前8時30分
目が覚めた時、男は自分の身体に尋常ならざる変化が起こっていることに気がついた。
なんだか視界がぼんやりしている。それ以上に奇妙に感じたのは、目に映るひとつひとつの像が頭の中で識別できないことだ。
自分で見えているものがなんなのか分からない。男は目を見開いたり細めたりして、自分が今見えているものを識別しようとしていた。
ずっと遠くにクリーム色の電信柱が四本立っている。しかしよく見るとそれは巨大な椅子の脚であった。
(身体が縮んでしまったのだろうか)
彼は最初、そう思った。驚きのあまり、何かを叫ぼうと口を開けたが、声を出すことができない。
それ以上に気になったのは匂いだ。鼻が曲がりそうな悪臭。臭いのする方に目を向けると、そこにはガリバーが着るような巨大なワイシャツがかけられていた。
これはおそらくは洗剤の匂いであるはずだが、今の彼には不快な刺激臭そのものであった。
自分の身体に起こった変化が如何なるものなのか、彼には見当がつかなかった。眠りにつく前の記憶を呼び戻そうとするが、頭がひどくぼんやりしていて何も思い出すことができない。
それにしても酷い匂いだ。彼は鼻を摘もうと右手を上げた。照明の灯を受けた黒い毛皮が視界に入る。
そこで初めて、彼は自分の身に何が起こったかはっきりと理解することができた。
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【証言❶ドクターヘリ操縦士Kの場合】
「ええ、私がヘリを操縦していた者です。ゴルフ場から要救助者を乗せて、まっすぐ着地点として指定されたグラウンドに向かいました。
雲が多く風も強かったため、飛行環境は決して良いとは言えませんでしたが、着地点として指定されたグラウンドは、中央公園のど真ん中にあり、かなり広い場所でした。
操縦士としては、着地点が広いということが何よりも精神的な救いになります。しかし、着地点として指定されたグラウンドの上空近くに来た時、私は心臓が止まるくらいの驚きを感じました。無人であるべきグラウンドでは、野球の試合が行われていたからです。
ありえないことです。ここは確かに週末になると、野球やサッカーの試合がよく行われているところです。しかし、その日は平日で、それ以前に一刻を争う要救助者を運んでいるドクターヘリの着地点に人がいることなどありえない話です。
グラウンドで試合を楽しんでいる連中は、すぐ頭上でドクターヘリがプロペラを回している様子に気づいていないようでした。それどころか、うまく言えませんが、、「この連中は、ヘリをここに着地させたくないのではないか?」そんななんというか、強固な意思のようなものを感じました。
すぐさま地上と連絡を取ろうと思ったのですが、電波が妨害されているのか、全く連絡が取れないのです。私は途方に暮れてしまいました。やがて違う場所を着地点にするように連絡をもらった時、ほっと胸を撫で下ろしました。電波が妨害されていたと思われる時間はおそらくわずかだったと思いますが、要救助者にとっては一刻を争うことです。しかも、その要救助者というのが、、、、、」
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【ドクターヘリと靴下猫】〜2010年8月8日正午
立花理瀬は公園のベンチに座り、母親が毎日のように持たせてくれるお弁当に箸をつけていた。
ジージーとセミの鳴き声が喧しい。今日の気温は三十四度になると朝の天気予報で言っていたが、木陰のベンチに腰を下ろすと、気持ち良い風が頬を撫でた。
目の前の池には噴水があり、黄金の女神像が左手で頭上に掲げられた摺鉢状の盆を支えている。一羽の鳩が盆の上で羽を休めていた。
理瀬は女神像が支えている盆から水が噴出するところを見たことがない。所々、色が剥げ落ち、黒い斑点があちこちにできている。池の周りを、お年寄りが杖をついて散歩をしていたり、お母さんがベビーカーを押していたり、下校途中であろうランドセルを背負った子供たちがはしゃいでいたりする。いつもと変わらぬ風景。誰も水を出さなくなってしまった女神像には見向きもしない。
理瀬は一人ここに座り、女神像を眺めながらお弁当を食べるのが好きだった。
「まもなく、ドクターヘリが着陸します。強風による飛散物には充分にお気をつけください」
理瀬は声のする方向に顔を向けた。いつのまに到着していたのだろうか、消防車と救急車が、公園の入口に停まっている。池の向こう側には無人の広いグラウンドがあった。ドクターヘリが着陸する場所。バラバラバラバラと、ヘリコプターがプロペラを回す音が聴こえてきた。箸を休めて顔をあげると、無数の背の高い樹木に寸断された青い空に、ドクターヘリの機体の一部が見えていた。機体は少しずつ高度を下げながら、グラウンド中央の真上で動きを止めた。プロペラを回す轟音は一層、激しさを増してゆく。
白地に赤く、「DoctorHeli」と書かれた堂々たる機体が、地上目掛けてゆっくりと垂直に下降してくる。大きな機体が巻き起こす強風により、グラウンドから砂埃が舞い上がった。樹木の枝が揺れる。無数の木の葉が砂埃の中で舞い踊る。女神像の上で羽を休めていた鳩が、プロペラの轟音に驚いたのか、身体を震わせた。そして翼を広げ飛び立ち、理瀬の頭上を横切っていった。
グラウンドに着陸したドクターヘリから、ストレッチャーに乗せられた要救助者が運び出された。
要救助者を無事、機体から降ろしたドクターヘリは、ゆっくりとプロペラを回し始めた。再び、バラバラバラバラと唸り声をあげ、微かに機体を揺らしながら、雲ひとつない空に向かって垂直に上昇してゆく。
やがて辺りは静けさを取り戻した。セミの声だけがジージーと喧しい。時折、車のタイヤがアスファルトを滑らせる音が聞こえてくる。ドクターヘリの姿に釘付けになっていた理瀬はふと我にかえり、腕時計を眺めた。
「いやだ、もうこんな時間じゃない」
弁当の残りを急いでかきこみ、空になった弁当箱をハンカチで包み直し、ショルダーバックに仕舞う。ベンチからゆっくりと立ち上がると、重たい足取りで歩き出した。
ドクターヘリの離着陸の一部始終が、脳裏に焼き付いていた。ドクターヘリがいつから導入されたのか、理瀬は知らない。しかし、交通事故による死亡者を劇的に減らしたことは知っている。
「ドクターヘリがあの時、存在していたら、秀一は死なずに済んだかもしれない、、」
理瀬は入口付近に停まっている救急車の傍を通り過ぎた。その時、
「ニャア」
と、猫の鳴き声がした。立ち止まり何気なく振り返ると、救急車の後輪のタイヤに寄り添う様に黒猫がじっとこちらをみている。足先だけがなぜか白い。靴下猫と呼ばれている種類だろう。
「ニャアゴ」
猫がもう一度鳴いた。赤い眼の中央に細長い楕円形をした黒い瞳が、理瀬の顔をじっと見つめている。よくみると右前脚の中指のところだけが黒い。まるで白い靴下に穴が空いているようだ。
「いやだわ。赤い眼をした黒猫なんて気味が悪い」
理瀬は足早に公園を後にした。ほどなく要救助者が収容された救急車が、サイレンを鳴らして理瀬を追い越してゆく。その音に混じって、「ニャアゴ、ニャアゴ」という猫の鳴き声が再び聴こえたような気がした。
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【証言❷ 房総高校野球部監督Yの場合】
「秀一くんのことはよく覚えています。なんせ、我が校野球部が喉から手が出るほど欲しかった人材ですから。
我が校が県予選をなかなか突破できない一番大きな原因は、投手陣がいまひとつ弱かったことです。
そんな時、彗星のように彼が入部してきました。ナックルボール、ご存知ですか?無回転で放たれた球が不規則に曲がって落ちる。ええ、現代の魔球と呼ばれている変化球です。高校生でナックルを投げることができる投手なんて私は見たことがありませんでした。しかし、秀一くんは涼しい顔をして、ナックルを投げたんです。
彼は真面目な性格で、人の何倍も練習していました。いよいよ、これで甲子園だ。夢が現実を帯びてきた。そう思った私は、年甲斐もなく興奮しました。
しかし大きな問題がありました。ナックルを捌ける捕手がいないんです。ランダムに変化して落ちるナックルは捕球が極めて難しい。練習に練習を重ねましたが、捕手の方にストレスがきてしまいました。
そして悲しい事件が起こりました。当時、秀一くんの球を受けていたキャッチャーがナックルをうまく捌けないことを理由に、秀一くんを逆恨みするようになったんです。「高校生の分際で、ナックルなんか、投げんなよ!」彼は自分が捌けないのを棚に上げて、秀一くんをなじっていました。そして、ついに、耐えきれず、、学校の階段から秀一くんを突き落としてしまったんです。
その時、【右手首を複雑骨折】してしまった秀一くんは、二度とナックルを投げられない身体になってしまいました。もちろん甲子園なんて幻と消えました。それどころか、不祥事ざたになって、高野連からも目をつけられ、、ほんと、散々な目に合いましたよ、、、」
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【猫店長】〜2010年8月8日午後2時
空調の止まった室内は、尋常ならざる熱気に包まれている。今日の最高気温は三十四度だと、朝の天気予報でアナウンサーが叫んでいた。
「クールマックス」という名の冷感素材でできたインナーの上に、半袖のボタンダウン、白の綿パンというクールビズスタイルに身を包んだ副店長の香田祐司は、六畳ほどのスペースがある事務所でひとり、パチパチとノートパソコンのキーを叩いていた。額から汗がとめどなく流れ出す。
「ちくしょう、何がクールマックスだよ!ちっとも涼しくないじゃねえか。このクソ暑いところで販売計画書なんか作れっこねえだろ!なにが経費削減で事務所の空調を止めるだよ。あのクソ店長!バカも休み休み言えっての」
祐司はキーを打つ手をとめ、座ったまま両手を上げて大きく伸びをした。クリーム色の天井を見上げる。体重をかけられた椅子の背もたれが、ギシギシと悲鳴をあげる。
照明の光を顔に浴びると、気温がさらに上昇したような気がした。祐司は何かを思いついたようにポンと手を叩き、立ち上がった。
事務所の入り口に近い壁に取り付けられたスイッチをパチンパチンと乱暴に押し、照明を切った。途端に薄暗くなった室内で、パソコンのディスプレイだけがぼんやりと青白く光っている。
「うん、これでなんとなく少しは涼しくなった気がするぞ」
祐司は再び机に向かい、パチパチとキーを叩き始めた。しかし、照明を切ったくらいで気温が下がるはずもなく、体中から吹き出してくる汗は止まらない。
「はあ、、」
大きなため息をついて、思わず俯いた。すると、突然、ポンポンと後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、猫店長がニヤニヤ笑いを浮かべながら立っていた。店長の今川敏夫は、ハリガネのように痩せた身体に、明らかにサイズの合わないゴールデンジャケットを羽織っている。ゴールデンジャケットは店長専用の上着。目印のようなものだ。
(いつのまに事務所に入っきたのか、、猫店長とはよく言ったもんだよな)
整髪料でビッチリと固められている豊かな黒髪が、パソコンのディスプレイから漏れる光を受けて不気味に光っている。切長の目、高い鼻、シミひとつない艶やかな肌。その端正な顔立ちは、実年齢より十歳くらい若く見えた。
「ユウちゃん、電気代を節約しようとする意欲は買うけど、こんな暗いところで仕事していたら、目が悪くなるわよ」
そう言うと、猫店長は足音を立てずに「移動」し、照明をつけた。店長の椅子に座った今川は、机の引き出しを開けて団扇を取り出し、パタパタと仰ぎはじめた。団扇に描かれた赤地に白い「必勝!」の文字が揺れる。
(まったく、何が必勝だよ。こんな趣味の悪い団扇、どこで拾ってきたんだよ)
「店長、このクソ暑いのに、よく、ジャケットなんか羽織っていられますね」
「ほら、これは店長の証みたいなものじゃない?常に緊張感を保つために、身につけているのよ」
今川は団扇を机の上に置き、両手でジャケットの襟を摘んで、胸を張った。ゴールデンジャケットというより、どう見ても辛子色のジャケットだ。
「ところでユウちゃん、J店の店長からね、ちょっと面倒くさい知らせをもらったのよ」
今川は赤縁のキャットアイ眼鏡を外し机の上に置くと、俯き加減で鼻梁を摘んで数回瞬きをした。
「実はね、どうやら社長が近いうちにJ店を視察しにくるらしいのよ」
「J店といえば、先月、十億かけて全面改装したんですよね。なんでも計画数値を大幅に割り込んでいるって噂ですけど」
「そうそう。十億よ、十億。会社の金をそんなに使って改装が失敗した、なんて、言えないでしょ。社長が来る前になんとか取り繕うと必死みたいよ」
「そうでしょうね」
「それでね。おそらく、J店を視察した後、うちの店にも来るんじゃないか、ってあたしを脅かすの」
「はあ、たしかに近いといえば近いですけど、、」
「それにしても、ここは暑いわねえ、、よくこんな場所で仕事できるわね。クーラーの効いた自分の部屋でやったら?」
今川は再び、パタパタと団扇を仰ぎはじめた。必勝の文字が左右に不規則に揺れる。
「いや、仕事は家に持ち帰らない主義なので、、」
「あら、さすが、前途有望な若者は言うことが違うわね。でも、熱中症になんかなっちゃだめよ。今月に入ってもう、二件も労災出てるの知ってるわよね」
祐司は心の中で大きな舌打ちをしながらも平静を装った。
「店長、そうなると、うちの店も社長の視察に備えて、いろいろと対策を練らねばなりませんね」
今川は、パタパタと仰いでいる団扇を裕司の方へ向けた。生暖かい風が頬を撫でる。
「さっすが、ユウちゃん、話が早いわねえ。それでね、今から、社長視察対策をいくつか指示するから」
「はい?」
「まず、合図音楽から決めようと思うのよ」
「えっ?合図音楽ですか?」
「社長はね、お忍びでお客さんのふりをして入ってくるでしょ。社長が入ってきたことをすぐに全従業員に知らせなきゃならないわけ。それには合図音楽を決めるのが一番だと思わない?」
「たしかにそうですが、、、」
「あたしはさあ、アバの『SOS』なんか良いと思うのよ。ユウちゃん、知ってる?アバ。若いから知らないわよねえ、、あたしの年代はみんな知ってるわよ」
今川は思い出したようにキャットアイ眼鏡を取り上げ、掛け直した。細面にその眼鏡は、ゴールデンジャケット以上に不釣り合いに見えた。
「アバなら知ってますよ」
「うんうん、それなら、アバの『SOS』に決まりね。社長の顔を見つけた従業員はすぐに電話交換室に連絡する。交換は即、『SOS』を流す。従業員は全員売場に出て売り込みよ。社長が目の前通ったら、大きな声で挨拶。いいわね。それからね、社長の顔写真をさ、カラーコピーして、全従業員に配ること」
「はあ、全従業員、、ですか?」
「そうよ。警備員から掃除のおばちゃんまで全員よ。ほら、中には社長の顔、知らない不届き者もいるじゃない。それじゃあ困るのよ。せっかく合図音楽決めたって、社長の顔がわからなきゃ意味ないじゃない」
「はあ、、たしかに、、」
「ほら、K店の話、知ってるでしょ。開店前、ワックスがけしたフロアを掃除のおばちゃんが、一生懸命乾かしていたら、その上を社長がうっかり通っちゃってさ、掃除のおばちゃん、えらいキレちゃって、『あんた、誰よ!そこワックス乾かしてんのよ!通るんじゃないわよ!』って、社長に向かって怒鳴っちゃってさ。それからすぐ、そこの店長、どっかの店の鮮魚だか精肉の平社員に落とされちゃったわよね」
「たしかに、そんなことありましたね。しかし、店長。経費削減で、カラーコピーは禁止されてるはずじゃ、、、」
「そんなの、会計からお金出して、近くのコンビニでカラーコピーしてくればいいじゃない。出金理由はさ、「破損した備品購入のため」でいいわよ。あたし、印鑑押してあげるからさ」
「はあ、わかりました」
「それからね、入り口四箇所のガラス扉に張り付けてある掲示物は全て取り外してね。営業時間とか、催事の案内とか、いろいろとベタベタ貼り付けてるじゃない。社長、ああいうの大嫌いだから。『掲示物でガラスを塞いでしまったら、入り口がガラス扉になってる意味がないだろう』ってよく言ってるのよ。まったくさ、ごもっともな話なんだけどね。社長が帰ったらさ、また、貼り付けていいからさ」
今川は仰ぎ疲れたのか、必勝の団扇を机の引き出しにしまった。その代わりに机の中からマニキュアを取り出し、爪の手入れを始めた。透明のマニキュアを塗られた爪が照明を浴びてキラキラと輝いている。
「まあ、とりあえず、そんなとこかしら。しかし、まったく、ここは暑いわねえ。あたしは売場を巡回してくるから。ユウちゃんもそこにずっと座っていないで、たまには売場に出てね」
話を一方的に切り上げた今川は、すっと立ち上がり、足音を立てずに事務所を出て行った。一体、どんな靴を履いているのか。祐司は遠ざかる猫店長の足元を見つめていた。
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【証言❸房総カントリーキャディMの場合】
「四人組のパーティでした。全員男性でしたね。ただ、年齢にばらつきがありました。六十歳を過ぎているか過ぎていないかというおじいちゃんがふたり、一人は背が低く、もうひとりは大柄な体格でした。三人目はイヤミなくらいゴルフ焼けした四十代くらいの男。残りのひとりはまだ三十代になるかならないかくらいの若い人でした。
四人組の会話を少し聞いただけで、どこかの会社の接待ゴルフなのだなとわかりました。おそらく、背が低い方のおじいちゃんが一番偉かったんじゃないかと思います。
背が高い方のおじいちゃんはおそらく背が低い方のおじいちゃんの友達なんじゃないかと思います。四十代の男性はとにかくおじいちゃん二人に向かってやたらとペコペコと頭を下げていましたね。おじいちゃん二人がティーショットを打つたびに、ボールの弾道をよく見もしないで「ナイスショットおおお!」なんて大声で叫んでました。
全く恥ずかしいくらいのコバンザメぶりでしたね。
でも一番気になったのは若い男性の方でした。顔色がすごく悪かったんです。見た感じ、おそらく四十代の日焼け男のそのまた部下なんじゃないかと思います。青白い顔をしていて目は酷く充血していて、目の下にはクマもありました。きっと仕事が忙しくてろくろく睡眠も取れていなかったんじゃないかと思います。せっかくの休日なんだから、ゆっくり家で寝ていたいのに、接待ゴルフなんて、まったくやってられねーな、なんて思っているんでしょうね。あ、これは私の想像に過ぎませんけどね、、
その日は雲ひとつない快晴で、とにかく暑い日でした。今年の夏は暑い、なんて毎年言ってるような気がしますけど、ほんとに暑い夏でしたね。街中じゃ、熱中症でバタバタと人が倒れてましたよね。ゴルフ場でもプレイ中に具合が悪くなる人が結構いて、その度に私たちキャディは、余計な仕事を抱えてしまうわけです。
全く、具合が悪くなるくらいならこんなクソ暑い日にゴルフしにくんなよ、って話ですよね、全く。あ、また、私、余計なこと言ってます?
そんな日でしたから、私はその体調の悪そうな若い男性が、気になって仕方なかったんです。ゴルフはね、四人の中で一番上手でしたよ。ええ、私くらいになれば、フォームを見ただけで、どのくらいの腕前かわかるもんなんです。とても綺麗なフォームをしていました。でもスコアはイマイチでしたね。体調が悪いせいなのか、もしかしたら、おじいちゃん達に遠慮してわざと下手に打っていたかもしれませんね。ほんと、接待ゴルフって大変なのね、なんて、他人事のように思いましたっけ。
そして、あれは午後一時くらいでした。一日で最も暑くなる時間帯ですね。私の心配が的中して、その顔色の悪い、目の充血した若者がフェアウェイ上で突然倒れたんです。私も、残り三人のメンバーも、彼の周りに走ってきました。若者は完全に気を失っていました。三人の呼びかけに、ピクリとも動きません。
私は慌てて無線機でクラブハウスと連絡をとり、救急車の手配をしました。でも、山の中でしょう。救急車なかなか来ないんです。もうゴルフどころじゃありません。その時、私のちょうど隣にいた四十代の日焼け男がボソッと言った独り言が忘れられません。
「ちっ、まったく、使えない奴だ、、」
自分の部下が生きるか死ぬかという時に、あの男はそう確かに言いました。全くなんという男なんだろうと思いました。上にはバッタみたいにペコペコしてるくせに、、、きっとあの男の腹の中は、顔色と同じく、真っ黒なんだと思いましたね。ああいうのが組織を腐敗させてゆくのだと思いますね、、あ、また余計なこと言ってます?
結局、救急車で搬送されたものの、若者は病院で息を引き取ったそうです。事故?とんでもない。過労死ですよ、きっと。過労死。あれは事故なんかじゃなく殺人ですよ。あの若者は普段から上司と思われるあの日焼け男にこき使われていたに違いないんです。あの日焼け男、多分そのうち夜道で刺されるんじゃないですかね?あ、ミステリ小説の読み過ぎですね。この部分はカットでお願いしますね、、、」
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【碇 冬司】〜2010年8月8日午前2時
バリン!
階下でガラスの割れるような大きな音が響いた。少年はベッドから起き上がり、自室のドアを静かに開け、足音を立てないように階段を降りる。
女の甲高い悲鳴、そして男の掠れた怒鳴り声。また、酒に酔った父親が母親に暴力を振るっているのだ。
(、、、、いつもの事だ、、、)
少年は、リビングに入る扉のドアノブを掴もうと右手を伸ばす。しかし、その瞬間、リビングから漏れる照明の光が、赤黒く変色した右手を照らした。父親が少年につけた火傷の跡だ。
右手の甲のほぼ中央部から、人差し指から小指に至る全ての指の第二関節までが赤黒く変色している。横に平たい楕円形をした手の甲の変色部分は、目玉の形を連想させた。第二関節までかかる指の変色部分が、ちょうど睫毛のように見える。
少年は震える右手を引っ込めた。そして、恐怖ですくみ上がりそうな身体に鞭打って、再び足音を立てずに自分の部屋に戻った。
数分後、家の前にパトカーが止まった。割れた窓ガラスの音と、そこから漏れた母親の悲鳴が隣家まで聞こえたらしい。
(きっと僕を捕まえに来たんだ、、母親が父親に殺されそうになっているのに助けに行かない息子の僕を、、、)
少年は頭から布団を被り、ガタガタと震えた。右の手の甲に残っている火傷の跡がジクジクと疼き出した。
階段を登ってくる足音が聞こえてくる。
(捕まったら、、殺される、、、)
少年はベッドから飛び出した。二階から飛び降りようと、窓枠に手を掛けようとしたその瞬間、激痛が走る。焼けつくような手の甲の痛み。
「うぎゃあああ、、、」
少年は絶叫して、左手で右手首を掴んだ。楕円形の変色部分が鮮血のような赤い色に染まっている。そして、その中央部に今度は縦に細長い漆黒の楕円形が浮かび上がっていた。血に染まった眼球が少年をじっと見つめている。
「ニガスモノカ、、、」
右手首が少年の喉笛を掴む。凄まじい力だ。少年は左手で右手首を掴んで、引き離そうとするが、意思に背いた右手は微動だにしない。息ができない。
そして、少年の意識はだんだんと遠くなっていった、、
※※※※※※※
ベッドから半身を起こした碇冬司は、寝汗をびっしょりとかいていた。また、同じ夢を見た。枕元の目覚まし時計のデジタルは午前二時二十五分を表示している。暗闇の中、手探りで空調のリモコンを探し、タイマーで切れたエアコンを、再び作動させた。眠りに落ちてからまだ二時間もたっていない。眠りの浅い理由はきっと熱帯夜による寝苦しさだけではない。
闇が最も深くなる時間帯。エアコンの唸り声だけが鼓膜を刺激する。
「十億もかかっているんだよ、君。店長としてどう責任をとるつもりかね」
昨日、社長から直に電話がかかってきたのだ。
「必ずあらゆる手を使って、数値を挽回いたします」
言葉の内容とは裏腹に冬司の声は微かに震えていた。
「近いうちにそっちに行くからね。充分に『不振対策』を練っておくようにね」
社長の声は冷ややかだった。冬司は右手に残った禍々しい火傷の跡を見つめた。父親はまだ赤子だった頃の冬司の右手に、タバコの火を押しつけた。今でも雨の多い季節になるとその傷跡が疼く。
冬司は古傷のある右手で、右側の頬をなでた。一週間前に右下の親不知を抜いた。持ち主の性格に似ていたのか、諦めの悪い親不知はなかなか冬司から離れようとしなかった。小一時間かけてやっと抜くことができたが、そのあとやってきたのは、しつこくまとわりつく傷口の痛みだった。そしてその痛みは、いまだ、冬司から去ってくれない。
「理瀬のやつ、ほんと、使えない女だ。あの頭の硬さを何とかしなければいくらダイバーシティのレールに乗っかった女だと言っても、店長にはなれないだろう」
冬司はそうひとりごちた。エアコンが室内の温度を下げると、再び眠気がやってきた。親知らずを抜いたところの痛みも、眠気と比例する様に少しづつ和らいできた。
「まあいい。社長が来ると言うのは逆に名誉挽回のいい機会だ。今に見ていろ。俺の力で必ず数値は回復させる」
再びベッドに横たわり、目を瞑った。瞼の裏に、夢の中で出てきた血に染まった眼球が鮮烈に蘇る。せっかくやってきた眠気を追い払うように。
「フニァア、、フニー、、」
遠くで猫が叫んでいる。猫というのは不思議な生き物だ。どこに行っても見かける。特にこの辺りは野良猫が異様に多い。
エアコンを切ろうとリモコンに手を伸ばしたがやめた。まだしばらく眠れそうになかった。
※※※※※※※※
【クレーマー】〜2010年8月8日午後2時
「副店長、火野様からお電話が入っております」
事務所のパソコンに向かい販売計画書を打ち込んでいた理瀬は、顔を顰め、大きなため息をついた。
チリ一つ落ちていないグレーの事務机には、社内用の黒いノートパソコンと、クリーム色の固定電話しか置かれていない。
(まったく。この忙しいのになんの用かしら。苦手なのよね、あのじいさん)
「分かったわ。事務所の固定電話に繋いでちょうだい」
理瀬はそう言って携帯を切った。ほどなく目の前に鎮座している固定電話が、プルルルル、と不吉な音を奏でた。
「お待たせいたしました。副店長の立花でございます」
「店長はやすみかね?」
掠れた老人の声が、受話器の向こう側から聞こえてきた。
「はい。碇は本日、お休みをいただいております」
「そうか。それは困ったねえ、、、」
「申し訳ございません」
「仕方ないね。それじゃあ、かわりに君に頼もうか」
「何かご要望でしょうか?」
「うん。ほら、明日、モンスターなんとかっていうゲームソフトが発売になるだろう?」
「モンスタークエストでしょうか」
「そうそう、それそれ。孫が欲しがっていてねえ。ひとつでいいから、取っておいて欲しいんだよ」
「大変申し訳ございませんが、限定数量五十本限りとなっておりますので、抽選販売となります。開店時刻までにお越しくだされば抽選に参加できますが」
「抽選は外れる場合もあるだろう?」
「もちろん、その場合は残念ですが、次回入荷時までご購入をお待ちいただくことになります」
「それじゃあ、困るんだよ。ひとつくらいとっておいてくれてもいいだろう!」
「それはいたしかねます」
「何だと?私を誰だと思ってるのかね。あんたんとこの社長のゴルフ仲間、火野だよ」
「誰であろうとお客様はお客様です。不正はできません」
「不正だと!私が不正をしているということかね」
理瀬は徐々に頬が熱くなってくるのを感じた。相手に悟られないよう、小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
「そうではございません。火野様のご要望を受け入れる私こそが、不正をしているということです」
「ああいえばこういう。何だね、君は。もういい、このことは社長に報告しておくからな。覚悟しておけ!」
火野はそう吐き捨てて、電話を切った。理瀬は静かに受話器を置いた。そして、何事もなかったかのように中断していた販売計画書の続きを始めた。白く細長い指が規則正しくキーを叩く。パチパチとリズミカルな音が事務所に響いた。
碇が社長から直電をもらったのはその翌日だ。火野が理瀬の無礼な態度を、社長に告げ口したに違いなかった。
※※※※※※※※
【証言❹ 房総大学ゴルフ部出身Hの場合】
〜2008年10月
「秀一はセンスあったよ。なんか高校野球で相当ならしていたみたいで運動神経抜群だったね。なんでも、魔球投げてたって言ってたぜ。なんだよ、消える魔球でも投げてたのかよ?なんて揶揄ってたら、急に俯いて泣いちまってな。
訳聞いてやったら酷えのなんのって。だから俺は秀一を不憫に思って、一生懸命教えたわけよ。
最初はさ、野球のスイングのクセが抜けきれなくてな、、クラブをバットみたいに振り回していたんだが、持ち前の運動神経の良さで克服してな。それにあいつ、誰よりも努力家だったよ。一年後には俺よりうまくなっててさ、全く、、
挙句の果てにゴルフの学生チャンピオンだとよ。こいつは末恐ろしいやつだって思ってたら、無難な会社に就職してな。
あいつに「地味なスーパーの店員なんてお前にゃ似合わねえぞ」って言ったらさ、俺は商売でもナンバーワンになるんだよ、だってさ、、、
今、思えば、あいつの人並外れて努力するところが、あいつの最大の弱点だったよな。お陰であんな目にあっちまってよ、、まあ、あいつにとっちゃ、フェアウェイで死んだんだから、本望じゃねえかな、、
いや、やっぱ違うよな。接待ゴルフなんて汚らわしい場で死んじまったんだから、悔しくて、泣くに泣けねえはずだと思うぜ。この世を恨んで化けて出てこなきゃいいけどな、、あいつに限って、そんなことないと思うけどよ、、
まあ、この辺にしてくれよ。もう辛くて、あいつのこと話すのな、、」
※※※※※※
【クレーマー❷】〜2010年8月
「店長、火野様からお電話が入っております」
食品フロアのコンコースをすれ違うお客様に丁寧にお辞儀をしながら「移動」していた猫店長今川は、交換手からの不吉な知らせに顔を顰めた。
「いやねえ、、あのジジイ、苦手なのよ。あたしはいないって言ってちょうだい。事務所にユウちゃんいるから、そっちに回して」
それだけ伝えると、今川は携帯を切り、ゴールデンジャケットの胸ポケットにしまった。眼鏡のキャットアイフレームの位置を右手で直すと、滑るようにコンコースを移動していった。
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「副店長、火野様からお電話が入っております」
祐司は心の中で大きく舌打ちした。
(あんの、猫め、またこっちにめんどくせえ電話回しやがって)
器用に携帯を肩と耳で挟みながら、パチパチとパソコンのキーを叩いていた祐司は、仕方なく手を止めた。
「わかった。事務所の固定電話に回して」
そう言って携帯を切り、机の上に放り投げた。ほどなく、目の前に鎮座している固定電話が、プルルルル、と不吉な音を奏でた。
「お待たせ致しました。副店長の香田でございます」
「ああ、君かね。火野だよ。社長のゴルフ仲間の火野だよ」
「(ちっ、そんなの知ってるっての)火野様、いつもご利用くださいましてありがとうございます。何かご要望でしょうか」
「うん。明日発売される人気のゲームソフトがあるだろう。ほら、モンスターなんとかってやつ」
「モンスタークエストでしょうか?」
「うんうん。それそれ。一本、取っておいてくれないかね。孫が欲しがっていてねえ」
「あの商品は五十本限定ですので、抽選販売になっておりますが、、、」
「抽選ということは、外れる場合もあるのだろう?」
「はあ、まあ、たしかに」
「それじゃあ困るんだよ。だから、特別にひとつだけ取っておいてくれと、お願いしてるんだよ。私は火野だよ。あんたんところの社長のゴルフ仲間、火野だよ」
「(まったく、しつけーな)かしこまりました。他ならぬ火野様のご要望ですから、一本、お取り置きしておきます。ただし、他のお客様の手前もございますので、中身が見えないよう、あらかじめ私どもの方で包装させていただきます。また、お会計も、念のため、違うゲームソフトでレジを打たせていただきますがよろしいでしょうか」
「うんうん。なんでもいいよ。さすがは香田くんだ。話が分かるねえ」
「いえいえ、それほどでも、、」
「そういえば、君もゴルフやるんだったよねえ、、」
「はあ、、下手くそですが、、」
「うんうん。今度、一緒にまわろうよ。社長にも言っておくからさ」
「はい。よろしくお願い致します。楽しみにしております(そんなわけ、ねーだろ)」
「うんうん。それじゃあ、ゲームソフトの件、よろしく頼むよ」
「かしこまりました」
祐司は相手が電話を切ることを確認したのち、受話器を乱暴に戻した。直後、乱雑に積み上がった書類の上に放り出した携帯が、ブルルル、と振動した。書類の束がかすかに揺れる。
「チッ」
電話の主が猫店長今川だということがわかると祐司は大きな舌打ちをした。
「はい、香田です」
「ユウちゃん、火野のやつ、なんか言ってた?」
「明日発売されるモンスタークエストを一本取っておいてくれ、ということでした」
「まあ、あれ抽選販売じゃないの。まったく図々しいったらありゃしないわね」
「仕方ありませんので、一本特別にお取り置きしておく旨、お伝えしました。確か、二、三本余裕を持って納品されているはずなので。断ると面倒ですから」
「そうね、さすがユウちゃん。良い対応だわ。じゃあ、あたしはそろそろ帰るけど、あと、社長対策の方、進めておいてね」
「わかりました」
祐司は通話を切ると、再び携帯を机の上に放り投げた。
「まったく。俺より遅く入店して、俺より早く帰るのかよ」
まもなく定年を迎える今川の帰宅時間はいつも早かった。これ以上の出世は望めないから、割り切って仕事をしているのだろうか。
祐司は今川から叱責を受けたことはかつて一度もない。それは店のナンバーツーとして無難に店舗を運営している祐司の才覚によるものも大きかった。しかし、今川の日々の仕事に対する態度をみていると、明らかに仕事に対する情熱のようなものを失っているような気がした。
※※※※※※※
【証言❺】「ラックスマート」房総店青果マネージャーNの場合〜2010年10月
「碇さんっすか?あー、これ記事になるんですよね?名前出ちゃいますか?写真も名前もなしなら、、、大丈夫?じゃあ話しますけど、、、
ほんとやな店長でしたよ。仕事命っつーか、いや、そうじゃないですね。あいつは自己保身のことしか考えてなかったっす。部下のことなんかこれっぽっちも思ってなかったんじゃないですかね。だからあんなことになっちゃったんだと思うんです。まあ、結局、バチが当たったんす。「身から出た錆」ってやつっすね。錆の方も、はやくあんな奴の身体から出たかったに違いないっす。
でも本当にアイツ、あー、あんなヤツ店長なんて言えないから、アイツでいいんすよ。で、アイツの下で働いて一番辛かったのは俺たち現場責任者より、副店長だった秀一さんだと思いますよ。
秀一さん、ほんと良い人で、俺たち現場責任者から、パートのおばちゃん、アルバイトの学生にまで慕われてましたよ。本来なら、ああいう人が店長になるべきっすよ。
きっと、碇のヤツ、秀一さんに嫉妬してたんすよ。誰がどう見たって秀一さんの方が仕事できましたし、、アイツの秀一さん嫌いはハンパなかったっす。
出る杭は打たれるってヤツなんすかね?毎日のように言葉の暴力ですよ。秀一さんも、いい加減、ブチ切れたら良かったんす。
でも、秀一さん、アイツに何を言われても我慢して従ってました。秀一さん、体育会系っすから、縦社会っていうのをよく分かってたんす。そういうところ、俺たちから見たら歯痒かったんすけど、、、今思えば、俺たち現場責任者が結託して、アイツに反抗したら良かったんす。ほんと、秀一さんには申し訳ないことしたっす、、、、、
えっ、ゴルフっすか?あー、社長がメンバーになってる、「ラックスマートグリーンクラブ」なんてゴルフ同好会に二人とも入ってましたよ。グリーンクラブ?笑っちゃうっすね、こんな黒々とした会社の同好会とは思えないほど爽やかな名前でしょ?偽装っすよ、「ぎ、そ、う」笑。
もっとも、秀一さんは無理矢理参加させられてる印象でした。秀一さん、ゴルフの学生チャンピオンだったらしいじゃないすか。なぜかそれがバレちゃって。
社長がよほどゴルフに自信あるのか、「おー、ゴルフ学生チャンピオンだって?面白い!俺が社会人のゴルフっつーのをみっちり見せてやる!」なんて、息巻いちゃってさ、、、
秀一さんにしたら、かなり手加減してやってあげたはずなんすよ。でも、バレないように手を抜くって難しいんす。仕事もそうっすよね、、あ、これはカットで。
とにかく本気出してない秀一さんのスコアが、社長を上回っちゃったらしいんすよ。そしたら、社長、メチャクチャ機嫌悪くなっちゃったらしくて、、「今日は風邪気味で調子が出なかっただけだ」なんて、顔真っ赤にして言い訳してたらしいっす。
それからというもの、ゴルフの度に秀一さん、碇のヤツに連れてかれていました。あいつにしてみちゃ、秀一さんなんか連れて行きたくなかったと思いますよ。でも、社長が熱くなっちゃって、ほら、よくいるでしょ。ゲームでもなんでも「俺が勝つまでやる」ってやつ。社長が勝てるわけないのに、、しつこいようですけど、バレずに手を抜くって難しいんす。真面目な性格で努力家の秀一さんには「手を抜く」ということ自体が、生き方に反する行動だったんす。
秀一さんにとっちゃ、良い迷惑だったはずっす。碇のヤツから丸投げされる仕事の量が膨大で、計画書とか報告書の類は、全て家に持ち帰ってやってたらしいっす。
しょっちゅう、目を充血させて、目の下にクマを作って出勤してました。その上、接待ゴルフでしょ?俺だったらとっくに会社辞めてるっす」
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【視察前日〜香田祐司の場合】〜2010年8月
祐司は正面入口のガラス扉にクリーナーを吹きかけ、丹念にガラスを磨いていた。至る所に様々な販促物を貼り付けていたテープ跡がある。
社長は筋金入りの潔癖症だという。たとえお客様には見えない程度の汚れでも、社長の目には鮮明に映るのだという専らの噂だ。たったひとつのテープ跡でグチグチと叱責を受けたらたまったものではない。
開店一時間前の正面入口付近には、祐司のほかには誰もいない。ガラス越しに、広大な平面駐車場が見える。従業員専用の駐車区画に、車が数台停まっていた。その他は、広大なアスファルトの上に、白線のマス目が無限に続いているたけだ。
等間隔に設置されたパーキングブロックの上に、大きなカラスが一羽止まっているのが見えた。朝の陽光を浴びて全身がテラテラと黒光りしている。その姿は、整髪料でびっちりと固めた猫店長の頭髪を思わせた。
社長の視察を翌日に控え(もっとも視察先はJ店であり、ここに来るとは決まったわけではないのだが)、祐司の頭には疑問符がいくつも浮かんでいた。
「店長、従業員の人員配置はどうしますか?」
「そのままで良いわよ。平日じゃない」
「いや、しかし仮にも社長が視察に来る日ですよ。もしもの時のために、人員を厚くしなくて大丈夫なんですか?」
「ユウちゃん、あたしたちは誰のために仕事してるの?」
「はあ?」
「社長のために毎日店開けてるわけじゃないでしょう。お買い物に来てくださるお客様のために、あたしたちは毎日仕事をしているのよ。社長が来ようが大統領が来ようが関係ないのよ」
「まあ、確かにそれはそうですが、、、しかしですね、、」
「しかしもカカシもないのよ。ユウちゃん、よく聞いてちょうだい。あたしたちがどこを向いて仕事をしなくてはならないか?そこのところをゆめゆめ勘違いしないことよ。物事の本質を捉えてそれを実行するということは大切なことなの。本質というのはえてしてとてもシンプルで簡単なものなのよ。それをきちんと理解しないから取り返しのつかないことになる、、、」
「はあ、、、」
「それに、視察の翌日は特売日じゃないの。視察当日の人員を厚くしたら翌日の人員が薄くなるでしょう。本末転倒だわ」
「わかりました。では通常通りの勤務体制ということで、、」
「そうよ。それで充分だわ。そうそう。それより、視察予定日は何度もいうけど特売日の前日よ。売れるわけないからね。くれぐれも、社長に良いカッコ見せようと思って、いっぱい発注なんてしないように各売り場の責任者に言っておいてちょうだい。ロスの山で店潰れちゃうわよ」
「わかりました」
「それにね、ユウちゃん」
「はい?」
「【まだ、うちの店に社長がやってくるって決まったわけじゃないのよ】」
「はあ、まあ、確かにそれはそうです」
そう返事はしたものの、祐司は今川の真意を掴み損ねていた。どうも合点がいかない。社長が来た時のために合図音楽を決めろとか、社長の顔写真をカラー印刷して全従業員に配布しろだとか、社長の視察に対して危機感を最も感じていたのはあの猫店長ではなかったか?
社長の視察に備えて、万全の体制を敷いておくのも、立派なリスクマネージメントではないのだろうか?
祐司は首を傾げながら、ラベル剥がし液をハケにたっぷり浸して、しつこくこびりついているテープ跡を拭き取っていった。
(しかし、このラベル剥がし液ってのは、誰が考えたんだろうなあ、、、)
祐司は何気なく赤地に黒い書体で「黎明」という商品名が綴られたラベル剥がし液の缶のパッケージを眺めた。
(黎明、、夜明け?たかだかラベル剥がし液になんでこんな大袈裟な名前をつけるかな、、、)
祐司はこの趣味の悪いデザインのラベル剥がし液が、火野の会社で作られていることを知っていた。
千葉エリアの「ラックスマート」では、かつて備品消耗品の文具を、H社へ一括発注していた。しかし、一年前、火野の会社へ注文先を変えた。
火野は小さな文具メーカーを経営していた。大手メーカーとの競争に勝てないと踏んだ火野は、経営路線を変更し、業務用に特化した文具を製造することにした。
顧客として目をつけたのは量販店だ。「ラックスマート」の社長の友人だったことも理由だが、その他にも理由がある。ひとえに量販店といっても、多種多様な業務がある。大きくわけて販売、製造、事務。この三つであるが、その各々の中で例えば販売をとってみても、衣料品から肉魚の生鮮品まで、業務内容は実に多彩だ。
多彩ということは、使われている文房具も多岐にわたっているということだ。ボールペン、油性のマジック、カッターナイフ、ハサミ、ダブルクリップ、セロテープ、バインダー、コピー用紙、そして、従業員が携帯するメモ帳まで、千葉エリアのラックスマートで使用される業務用文房具の生産は、火野の会社が一手に引き受けていた。
火野と社長は同郷の幼馴染だそうだ。シゲちゃん、ゲンちゃんと呼び合う仲だったらしい。もっとも、社長の下の名前を知らない不届きな祐司にとっては、どっちがシゲちゃんでどっちがゲンちゃんなのかよくわからないのだが、、、
火野の会社に注文先を変えてから、従業員から文房具備品に対する不満が急に増えた。ボールペンもホッチキスもダブルクリップも以前より壊れやすいというのが主な内容だ。
火野のことだ。どうせ原材料費をケチって粗悪な商品を送ってよこしているのだろう。しかし、火野が社長と懇意にしていることは店幹部の誰もが知っている。従業員の不満が公になることは決してなかった。
「ちっ、全く、何が黎明だよ。ラベル剥がし液まで粗悪だぜ。四箇所の出入り口全ての掲示物を取り外すまで一体、どんだけかかんだよ、、」
祐司は刷毛にたっぷりと染み込ませたラベル剥がし液をガラス扉にこびりついたテープ跡に浸しながら、ぶつぶつと独りごちた。
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【証言❻】県立房総高校定時制元教員Tの場合〜2010年10月
「冬司君は非常に優秀な生徒でした。成績は常に学年でトップでしたよ。もちろん、全日制の生徒を含めての話です。彼は努力家でした。家が貧しく塾に通わせてもらえなかった彼は、勉強で分からないところがあると、いつも私を捕まえて、自分がきちんと理解するまで質問攻めです。
不景気で働いていた工場が潰れて、職を失った父親は、酒浸りになり、よく冬司君に暴力を振るっていたようです。母親は家計を支えるために、朝から晩まで働き通しでした。
彼自身も、自分の進学費用を稼ぐために昼間は学校の近くにあった「ラックスマート」の食料品売場で働き、深夜はファミリーレストランの厨房で働いていたようです。高校生に深夜のアルバイトなどさせては法令違反なんですけど、もう昔の話ですし、まあ大目に見てあげてください。
彼の家の事情を知っていた私は不憫に思い、とことん彼の勉強に付き合ってあげました。教科書はどれもぼろぼろでしたね。参考書なんてもちろん買ってもらえません。
でも彼の目は常に輝いていました。将来、政治家になってこの国を変えるんだ。彼はいつもそう言っていました。
ところが、ある日、酒に酔った彼の父親が、母親の頭をビール瓶で殴り、大怪我を負わせてしまったのです。父親は傷害で逮捕され、母親は病院送りになりました。その事件を境に、彼の運命は暗転してしまうのです。
もう進学どころではありません。自らがコツコツ貯めていたお金も、知らないうちに父親に引き出され、すっからかんだったようです。母親も事件以来、体調を崩しやすくなり家に閉じこもりがちになりました。
そんな冬司君を見かねて、就職の世話をしたのが、当時のバイト先だったラックスマートの上司でした。男のくせになんだかオカマみたいな話し方をする変な奴でしたが、信用できる男だと私は判断し、その男に冬司君の就職の世話を任せたのです。
無事、「ラックスマート」に就職した彼は、父親への怒りを全て仕事にぶつけていたようです。そういう意味では、高卒だろうが大卒だろうが、あくまでも実務能力で評価をしてくれる「ラックスマート」に就職できたのは幸運だったと思います。
彼は持ち前の努力と、溢れんばかりのエネルギーで、大卒社員を凌ぐほどのスピード出世を果たしました。二十代で店長にまで上り詰めたのは冬司君が初めてだそうです。
しかし、彼の人並外れた努力を生み出す原動力というものは、高校時代の彼のものとは明らかに違っていました。それを感じたのは、高校を卒業してから音信不通になってしまった冬司君に偶然、「ラックスマート」の店内で遭遇した時です。そう、遭遇、まさに遭遇という言葉がふさわしい。彼の外見は別人のように変わってしまっていました。
高校時代の冬司君は、色白で華奢な身体つきをしていました。しかし、その時の冬司君の肌は褐色に変化していました。本人は「ゴルフ焼け」だと言っておりましたが、、、目つきもなんだか変に鋭くなって、薄い唇も右端が微妙に吊り上がっていました。
そして私が最も気になったのは笑顔です。彼は私を見て、懐かしそうな笑顔を向けてくれました。しかし何かおかしいんです。うまく言葉にできないのですが、笑っているのに表情がないというか、歪んでいるというか、人工的というか、、、
例えて言えば、それは能面のようでした。冬司君はいつの日からか心から笑うことができなくなってしまったようです。感情そのものが希薄になってしまったのか、感情と顔の表情がリンクしなくなってしまったのか、それはよくわかりません。
もしかしたら、彼は悪魔と契約して、店長という地位と引き換えに顔を剥ぎ取られてしまったのではないか?そんなことすら考えてしまいました。
もう高校時代の冬司君の面影は全くありません。まさに別人。彼は別の人になってしまったのです」
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【視察前日〜立花理瀬の場合】〜2010年8月
理瀬は碇が作成した「社長視察対策のチェックリスト」を挟んだバインダーを片手に、売場を巡回していた。時刻は午前十時五分過ぎ。社長は開店直後に店に入り、朝の売場状況を視察することが多いという。
「わざわざ開店と同時に来てくださったお客様を大切にしなくてはならない」
社長の口癖だそうだ。
「まったく、、視察前日に視察先の店長とゴルフに行くような社長が、何言ってんだか、アホらしい、、、」
視察前日だというのに、当の店長は、社長とゴルフに行っている。ゴルフで社長をおだてるだけおだてて、視察をやんわりと済ませようとしているのだろう。
POPやプライスカードは100%取り付けられているか、コンコースや什器に汚れはないか、肉、魚、惣菜の商品は綺麗にトレーに盛り付けられているか、従業員はお客様にきちんと挨拶しているか、などなど、、
理瀬は、五十項目ほど箇条書きにされたリストのチェック欄に赤いボールペンで印をつけながら、売場の隅々まで確認して回った。
「そもそも、社長がうちの店に視察に来る原因を作ったのはお前なんだ。漏れのないようにきっちり売場を確認しておけ」
理瀬が火野に対して無礼な態度をとったことが、社長の視察を招いたのだ、と碇はしつこく理瀬を責めた。
理瀬は納得がいかない。正しい対応をしたのになぜ責められなくてはならないのだ。
「まったく、、ほんと、嫌味な男。あんなのがよく店長になんかなれたわね、、、」
理瀬は小さく舌打ちした。思わず力を入れてボールペンをノックしたら、口金が外れ、中に入っていたスプリングが飛び出し、床に転がった。
「、、、また、これで一体、何本目なのよ、、」
腰をかがめて、床に転がったスプリングを拾う。壊れたボールペンを腰に下げた黒革のシザーバッグにつっこんで、新しいボールペンを取り出した。
文房具備品の取引先を火野の会社に切り替えてから、明らかにボールペンが壊れやすくなった。ボールペンだけではない。ハサミ、ホッチキス、ダブルクリップ、、支給される文房具備品が壊れやすくなったという従業員からの苦情が理瀬の耳に何件も届いている。しかし、そんなことを碇に訴えても梨の礫だ。
「そんなもの、気のせいだろう。乱暴に扱うから壊れるんだ」
社長と懇意にしている火野の会社で作っているものに対して、文句を言うわけにはいかない。
理瀬は以前、備品発注を担当している会計の従業員から、発注記録を見せてもらったことがある。明らかに発注数量が増えていた。そのことを問いただすと、
「持ち出し数が半端ないんです。不正防止のために、壊れた備品と交換という形にしていますが、それでもこの数です。取引先を変えてからですよ」
そう言うとその従業員は、会計室からA4サイズのコピー用紙が入っていた段ボール箱を持ってきた。
「副店長、これみてください」
理瀬が中を覗くと、バラバラになったボールペン、ハンドルとクリンチャがくっついて離れなくなったホチキス、本体からレバーが外れてしまったダブルクリップなどがぎっしり詰まっていた。
「三ヶ月もすると、この箱が壊れた文房具備品でいっぱいになるんです。こんな壊れやすいもの使うくらいなら、って、自分で文房具を買ってくるパートさんも増えてきてるんですよ」
そう言って会計担当者はため息をついた。火野の会社のことだ。原材料費をケチって粗悪なものを大量生産しているに違いなかった。
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【猫の大行進】〜2010年8月
理瀬は公園のベンチに座り、俯いて小さなため息をついた。碇が作成したチェックリストに則して売場を確認したものの、午前中の段階でまだ二割程度しか終わっていない。この調子でいけば今日は一体、何時になったら帰宅できるのか。そう考えただけで気が滅入った。
顔を上げると、いつもと周りの風景が違って見えることに気がついた。女神像が持ち上げている盆から水が噴出していた。大きく弧を描いて噴出する力はもう残っていないのか、チョロチョロ噴き出した水は盆から溢れ、女神像の全身を濡らしていた。黒い斑点が至る所にできている女神像の顔に水が滴り流れていく様は、まるで涙を流しているようにみえた。
女神像を取り囲む池には、大きな鯉が一匹泳いでいた。緑色に濁っている水の中で身をくねらせている鯉に描かれたオレンジ色の斑点が、まるで鯉が血を流しているように見える。
「ニャア、、、」
突然聞こえた鳴き声に驚いて、足元に視線を移すと、赤い眼をした黒猫が、じっとこちらを睨んでいる。ふと猫の足元を見ると、足先だけが白く、右前脚の中指だけが黒い。穴の空いた靴下猫。間違いなく、ドクターヘリの離着陸を目撃したあの時に出会った猫だ。
理瀬はふと周りを見渡した。池の周りにはベンチが四箇所配置されている。ベンチに座っているのは理瀬一人だけだが、他のベンチにはいつのまにか数匹の猫が取り付いていた。ベンチの下に寝そべっているキジトラ、ベンチの上でちょこんと座っている白猫、池の縁を歩き回っているサバトラ。池の向こう側に視線を移すと、樹木の下にも、グラウンドのフェンスの周りにも野良猫がいる。
「こんなにたくさん猫がいるなんて、、」
理瀬は背筋が寒くなるのを感じた。猫が嫌いなわけではないのだが、あまりにも数が多すぎる。しかもその数はどんどん増えていく。
「まもなく、ドクターヘリが着陸致します。強風による飛散物に注意してください」
声のする方に視線を移すと、いつのまにか公園の入口に、消防車と救急車が停まっている。
(あのときと、同じだ、、、、)
理瀬は顔を上げた。耳を澄ませると、バラバラバラとヘリコプターがプロペラを回す音が聞こえてくる。どんよりとした雲のあいだから、ドクターヘリがその堂々たる姿を現した。その時、
「ニャアゴ、ニャアゴ、、、」
理瀬の足元に身体を丸めていた黒猫が立ち上がり、ひときわ大きな声で二度鳴いた。そしてグラウンドの方角へ歩き始めた。靴下に穴が空いているように見える右前足を少し引きずって歩いている。怪我でもしているのだろうか、、、黒猫の鳴き声を合図に、ベンチの上で丸くなっていた猫達、木陰で寝そべっていた猫達が立ち上がった。そのほかにも、茂みの中からガサゴソと猫達が次々と現れる。そして一斉にグラウンドに向かって歩き出した。
十匹、二十匹どころではない。その数は増殖し続け、黒猫の後につづいた。無数の猫たちがまるで軍隊のように、一糸乱れず「行進」していく。
(猫がこんな群れで動くなんて、、、そんなバカな、、、)
理瀬は夢を見ているようだった。一旦取り出した弁当箱の包みを、そのままもう一度ショルダーバッグにしまった。そして、ベンチから立ち上がり、まるで取り憑かれたようにグラウンドのフェンスに向かってふらふらと歩き始めた。
猫たちは赤目の靴下猫を先頭に無音の行進を続け、グラウンドの中心にむかっていく。猫の大群に踏まれたグラウンドから砂塵が舞う。砂埃が風に乗って理瀬の顔に触れる。目に入らないように額に右の掌を当てた。
黒猫、白猫、サバトラ、キジトラ、色も種類も様々な猫たちが弧を描くように、赤目の靴下猫を先頭に渦巻き状に並ぶ。一糸乱れぬその動きに、理瀬の視線は釘付けになった。そしてふと、小学生の頃の運動会を思い出した。
手作りの入場門から二列縦隊で入場する。グラウンドをゆっくり一周したあと、中央に向かって前進していく。そして、クラス委員を先頭に、背丈の低い順に並ぶのだ。クラスいち背の低かった理瀬は決まって、やけに大きく見えるクラス委員の背中を見つめていた。
背の高い秀一と並ぶと、理瀬は余計に背が低く見えた。
「りっちゃん、ほんと、ちびだよなあ」
秀一のゴルフやけした大きな手のひらが理瀬の頭を撫でる。あたたかなその感触と、笑うとみみずのように細くなる眼を思い出す。そういえば、秀一はよく眼を充血させていた。
「秀一、仕事、キツイんじゃないの?また家に仕事持ち帰ったでしょう」
「販売計画書とか、反省書とか、店だと落ち着いてできないじゃん」
そう言って、秀一は細い眼をより細くして笑った。背の高い秀一と並んで歩くことが恥ずかしくて、いつも半歩後ろを歩いた。理瀬が後悔していることと言ったら、たったひとつ、一度で良いから秀一と肩を並べて、そして、できれば手を繋いで散歩をしたかった。
猫の渦巻きの中心に、あの靴下猫がいる。顔を上げ、灰色の空に浮かぶドクターヘリをじっと見つめている。
ドクターヘリは今まさに、着地点を見据えて、垂直に下降してこようとしていた。パラパラパラとプロペラが回る音が園内の静寂を切り裂く。
靴下猫はじっと上空を見上げ、微動だにしない。他の猫たちもまるで強力な磁石に吸い付けられた様に、その場でじっとしている。無数の目が、円の中心でじっと空を見上げている黒猫に向いている。
ドクターヘリの着地点は、猫に埋め尽くされていた。無数の猫たちが、まるで置物のように佇んでいる。
猫が動きを止めた瞬間、風が止んだ。恐ろしいほどの静けさだ。灰色の空に浮かぶ、ドクターヘリのプロペラが回る音しか聞こえない。
(このままじゃ、着陸できない、、そうなれば要救助者は、、)
理瀬はグラウンドのフェンス越しに赤眼の靴下猫をじっと見つめた。その刹那、顔を上にあげて微動だにしなかった赤眼の靴下猫がくるりとこちらを向いた。理瀬と視線が合う。その瞬間、猫が目尻を下げて口を開け、ペロリと舌を出した。
※※※※※※※※※
どのくらいの時間が経ったのかわからない。着地を諦めたドクターヘリは空の彼方に消えていった。
「ニャア、、、」
渦の中心にいた赤眼の靴下猫が空に向かって鳴いた。そしてグラウンドの出口に向かって右前足を引きずりながら、ゆっくりと歩いていく。その後に無数の猫たちが無言で続いた。
そして出口から公園に出た猫達はまた散り散りになっていった。再び吹き始めた強い風がグラウンドに描かれた無数の猫の足跡を次々と消していった。
※※※※※※※※※
【証言❼ 救急隊員Mの場合】〜2010年10月
「見たこともない風景でした。黒猫を先頭に、無数の猫たちが、どんどんグラウンドの中に入っていくのです。
これはまずいなと思いましたよ。だってあんなに猫がたくさんグラウンドにいたら、ヘリが着陸できませんよね。
グラウンドから離れてください!なんて叫んだところで相手は猫です。馬耳東風、いやこの場合、猫耳東風っていうんですかね?あはは、語呂悪いですよね。
そんなわけで無数の猫たちを前に、私たちは手も足も出なかったわけです。
それから、あの黒猫、、、渦の中心にいた赤眼の黒猫、、奴と目があった途端、金縛りに遭ったように体が動かなくなりました。ええ、そんなに長い時間ではなかったと思います。
そのうち、消防本部から別の着陸場所の指示が出たのか、ヘリは上空から姿を消しました。赤眼の黒猫はじっとその様子を顔を上げて見つめていました。
とにかく、あんな気味の悪い猫を見たのは初めてです」
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【視察当日〜立花理瀬の場合】〜2010年8月
秘書室から電話連絡があった時、理瀬は一階の食料品の売場で、開店前の品揃え状況を見て回っていた。
店長の碇が、ゴルフ場で倒れたという知らせがあったのはついさっきのことだ。心臓発作だという。ゴルフ場からドクターヘリで運ばれたという話を聞き、理瀬は蒼白となった。
昨日見た光景が目に焼きついている。中央公園のグラウンドを埋め尽くした猫の大群、、そしてその中心にいた、赤眼の黒猫、、、理瀬は悪しき記憶を振り払うように首を横に振って、携帯を握り直した。掌には、じっとりといた汗がまとわりついていた。
「、、、中止?ですか?」
「ええ、社長は緊急の案件が入り、今日の店インタビューは全て中止となりました」
「はあ、それは良いのですが、延期ではなくて中止なのですね?」
「今そのことについては、即答は致しかねますが、当分、店インタビューはできないかと思います。察してくださるとありがたいです」
「わかりました」
理瀬は電話を切り、携帯をスカートのポケットに入れた。僅かに手が震えている。鮮魚売り場の脇にあるスイングドアを抜け、足速に事務所に向かった。
副店長の椅子に座った理瀬は、周りをきょろきょと見回した。事務所には今、理瀬ひとりしかいない。壁にかけられた時計は九時五十分を指している。開店十分前。店内が一番忙しなくなる時間だ。
机の下に置いてあるショルダーバッグを開け、その中からA4サイズの白い封筒を取り出した。封筒は碇冬司宛になっており、送り主は、「ラックスマート」健康保険管理部。
封筒からそっと抜き出した白い紙には、先月社内で行われた健康診断の結果が印字されている。
心電図の項目に赤いレ点が付いており、初見欄には「不整脈の疑いあり。至急病院で診察を受けること」と書かれていた。
不整脈、、、、
秀一が倒れたのも、不整脈が原因による心臓発作だった。健康保険管理部から何度も病院で診察を受けるように促されていたにも関わらず、秀一は病院に足を向けることがなかった。自覚症状が出ていなかったこともあるが、それ以前に、彼には病院で診察を受ける時間すら、与えられなかったからだ。
理瀬は再びキョロキョロと周りを見渡した。誰もいないことを確認すると、椅子から立ち上がり、事務所の片隅に置かれているシュレッダーに足を向けた。
シュレッダーの前に立ち、もう一度周りを見渡す。誰もいない。右手に握りしめた健康診断結果表とそれが入っていた封筒を別々にシュレッダーにかけた。機械がゆっくりと紙を飲み込んでゆく。ジーッ、、ジーッ、、ジーッ、、、、、紙が裁断される時間が異様に長く感じた。
鼓動がはやくなる。数日前、碇宛の健康診断通知が副店長のメールボックスに入れられていた。社内メール便を配布する事務担当のパートさんが間違えたのだろう。
理瀬はただ間違えて入れられていた碇宛の封筒を、店長のメールボックスに入れ直しておくだけで良かった。しかし、理瀬はそうしなかった。それどころか、碇に黙って開封した上に、不整脈で速やかに病院で診察を受けるように、という所見も伝えなかった。即座に診察を受けしかるべき処置をしてもらえば、ドクターヘリで病院送りになることもなかったはずなのに、、、
「、、、ふ、ふふ、、、ふふふふ、、あははははは、、、」
開店五分前を知らせる店内放送が、笑い声をかき消した。理瀬は開店挨拶に立つために店の正面入口に急いだ。
※※※※※※※
【証言❽】猫店長今川敏夫の場合〜2010年10月
「うちの店に新入社員として配属された秀一君の印象は、そうね、、いかにも育ちの良いお坊ちゃんという感じだったわね。
有名私大を出て、なんで「ラックスマート」みたいな量販店に就職を決めたのかわからないけど、とにかく真面目な青年だったわよ。
お坊ちゃんだとは言っても、ずっと体育会系だったから、根性はあったわ。それに彼は努力家だったわね。頭はもともと良かったから、仕事の飲み込みも早かった。
だからあたしは、入社三年目にして早くも彼を現場責任者に抜擢してあげたのよ。彼は
現場責任者として次々と結果を出していったわ。部下からの信頼も厚く、絵に描いたような理想の幹部だった。
そして、ついに二十代という若さで副店長にまで出世したのよ。でも、彼の一番の不幸は、碇くんの部下についたこと。彼らは能力的には最高のコンビだった。
碇くんも秀一くんに負けないくらいの努力家だったわ。でも、碇くんの努力は、秀一くんの努力と、質が全く違っていた。
碇くんは、高卒の叩き上げで二十代で店長にまで上り詰めた男。でも、その心は屈折していたわ。碇くんにとっては、なんの苦労もなく大学まで行って、なんとなく「ラックスマート」に入社して(少なくとも碇くんにはそう思えた)、自分と同じように若くして昇進を続けている秀一くんの存在が許せなかった。
碇くんはとにかく秀一くんに辛くあたった。秀一くんを虐めることで、彼の人生をどん底まで貶めた父親への恨みを晴らしているように見えたわ。逆恨みもいいところね、、
元はと言えば、あたしが碇くんに就職の世話などしなければよかった、、碇くんが「ラックスマート」に入社しなかったら、二人とも若くして命を落とすことなどなかったのだから、、」
※※※※※※
【視察当日】香田祐司の場合〜2010年8月
「ふわああー、眠いわ、」
祐司は、誰もいない事務所に入ると、照明の電源をオンにし、その場で大きく伸びをした。視察当日。きっちりとした売場で開店を迎えるべく、祐司にはやるべき仕事が多々あった。
デスクに向かい、ノートパソコンの電源を入れる。まず手始めに、昨日までの売上データを分析し、視察時、社長から機関銃のように飛んでくる質問攻めに備えなくてはならない。
画面のデジタル時計は、午前七時ちょうどを表示している。
「、、ったく、、十時開店だってのに、なんでこんな早く出社しなきゃなんねえんだよ。」
誰に話しかけるでもなくぶつくさと文句を言っていると、後ろから肩をぽんぽんと叩かれた。振り返るとゴールデンジャケットを羽織った猫店長今川が立っている。
(相変わらず、忍者みたいな人だな、この人は、、)
「あ、おはようございます、店長。今日はずいぶん早いんですね」
「仮にも社長が視察に来る日だから、早く来たんだけどね、その必要もなかったわ」
「どういうことです?」
「社長の視察、中止になったわ」
「え?中止?社長の視察が中止ですか?」
「たった今なんだけど、秘書室から電話があったのよ。なんでも、昨日、社長とJ店の店長、一緒にゴルフだったらしいのよ」
「はあ、、社長が翌日視察する店の店長とゴルフ、、ですか?」
「全く、呆れちゃうでしょ。「ラックスマートグリーンクラブ」の定例コンペですって」
「はあ、、で、それがどうしたんです?」
「それが大変なのよ。当のJ店の店長がゴルフ場で倒れちゃって、ドクターヘリで病院に運ばれたんだけど亡くなったわ。不整脈による心臓発作ですって、、」
「マジですか?」
「なんでも、ドクターヘリが当初着地する予定のグラウンドで野球の試合をしてて、着地できなかったらしいわよ」
「そこって、まさか、J店の近くにある中央公園のことですか?」
「そうそう。それがおかしいのよね。消防本部から着地点として指定されたのは中央公園のグラウンドだった。しかしドクターヘリの操縦者が見たのは、野球の試合をしている風景だった。でもね、実際現地に駆けつけた救急隊の話だと、猫の大群がグラウンドに押し寄せて、ヘリの着陸を妨害したって言うのよ」
「猫?ですか、、?」
「そうなのよ。変でしょ。操縦者と救急隊の話が食い違っているのよ」
「はあ、、なんだかわけのわからない話ですね、、」
祐司はグラウンドに大量の猫達が居座る光景を想像したが、うまく頭に思い描くことができなかった。
「そうそう。それから、備品文房具の話だけど、発注先をH社に戻すから」
「えっ?」
「パートさんからのクレームがすごいのよ。ボールペンやらホチキスがすぐに壊れちゃって使い物にならないってね」
「はあ、、たしかにそうですが、勝手にそんなことして大丈夫なんですか?」
「良いも悪いも、火野の会社、もうすぐ潰れるわよ」
「そうなんですか?」
「そりゃあそうでしょう。あんな不良文房具ばかり売りつけて問題にならないわけないじゃないの」
「はあ、まあそりゃそうですけど、、」
「とにかく、社長の視察は中止。早く来てもらって申し訳ないけど通常通り仕事してちょうだい」
今川は店長のデスクに座り、爪の手入れを始めた。その様子を眺めながら、祐司は困惑とも安堵とも取れるようなため息をついた。再びノートパソコンに向かい、エクセルの画面に切り替えた。社長が来ようが来まいが、祐司にはやるべき仕事が山のようにあるのだ。
数日後、今川の言う通り、火野の会社と取引をやめる通達が本部から流れてきた。後から聞いた話では、何者かが火野の会社の杜撰な商品管理を告発したらしい。その話には、ある日の深夜、商品開発部の部屋に黒猫が忍び込み、ノートパソコンの電源をつけ、器用にキーを操作していた、という尾鰭までついていた。巡回中の警備員がその様子を目撃したらしいのだが、真偽のほどは定かではない。
※※※※※※※※
【エピローグ】〜2010年8月
黒猫はリビングの片隅でじっと体を丸めていた。六畳ほどのフローリングの中央には木目調の小ぶりなテーブルと椅子が二脚、ぽつんと置かれている。黒猫が佇んでいる対角線上には、二十四型の液晶テレビがあり、その横の壁伝いに設置された木製の本棚には、文庫本やら雑誌やらが整然と並んでいた。
テーブルの上には、テレビのリモコンだけがポツンと置かれている。
リビングのドアノブを回すガチャリという音が室内に響いた。その音に反応したのか、黒猫は頭を上げた。赤い眼を大きく見開き、リビングに入ってくる男を見つめている。
猫店長今川はリビングに入ると、ゴールデンジャケットを脱いだ。カーテンレールにポツンと引っ掛けられていたハンガーを手に取り、ジャケットを掛けてカーテンレールに吊るした。
椅子に腰掛け、かけていた赤縁のキャットアイフレーム眼鏡を外し、静かにテーブルの上に置く。その様子を見た黒猫が、右前脚を引きずりながら、ゆっくり近づいてきた。
今川が腰を下ろした椅子の向かい側が、彼専用の椅子であった。黒猫はスルスルと椅子に駆け上り、ひらりと身を翻してテーブルの上に飛び乗った。そして、再び身体を丸くした。真紅に染まった両眼を見開き、じっと今川を見つめている。
「碇くん、死んだわよ」
今川はポツリとそう呟いた。
ゴロゴロ、、黒猫が喉を鳴らす音が微かに聞こえた。
「あんた、ほんとにこれで満足してるの?人間だった時はあんなに優しい子だったのに、、、生まれ変わると心の中まで変わってしまうのかしらね、豹変っていうくらいだからねえ、、あら、豹もネコ科だったわよねえ、、」
黒猫はしばらくの間、じっと、今川を見つめていた。そして不意に身体をひらりと翻し、椅子から飛び降りた。相変わらず右前脚を引きずり、ゆっくりと自分の寝床へ向かっていく。
寝床に戻った黒猫は身繕いを始めた。指先をペロペロと舐め、綺麗になった指を顔や耳の後ろに丁寧に擦り付ける。それが終わると、首を大きく曲げて、お腹と背中をペロペロと舐めた。今川はその様子をじっと眺めていた。
身繕いが終わった黒猫は再び丸くなり目を閉じた。
「やれやれ」
今川は小さくため息をついた。シャワーを浴びようと浴室に向かった。そして再びリビングに戻ると黒猫の姿は影もかたちも無くなっていた。寝床には代わりに真新しい白球が転がっていた。
ボールを手に取り、赤い縫い目をじっと見つめた。若かりし日の秀一が、甲子園のマウンドに立ち、ナックルボールを投げる姿を想像した。
「まったく、、、【一体、、どこで間違えたのかしら、、、】」
今川はまた大きなため息をついた。そして黒猫は二度と戻ってくることはなかった。
【了】
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