ギュスターヴ・ル・ボン「群衆心理」 教育と訓練④

たとえわが国の古典的な教育法が、落伍者や不平不満の徒しかつくらないにしても、もし多くの知識のうわべだけの獲得や、多くの教科書の丸暗記などが、知能の水準を高めるとすれば、おそらく、その教育法のあらゆる不都合をまだしも忍ぶことができよう。
しかし、実際、この教育法によって、こういう結果が得られようか?ああ!遺憾ながら、否である。判断力、経験、創意、気概などが、人生における成功の条件であって、教科書の中で、それらを学ぶのではない。教科書とは、辞書のようなものであって、参考の資料とすれば役に立つが、その冗長な断片的知識を頭に詰め込むのは、全く無用のことである。

では、どうすれば職業教育は、古典的教育の全く到達し得ない程度にまで、知能を発達させることができるか?テーヌが次の文章の中で、それを実にみごとに示した。

「思想というものは、自然で正常な環境においてのみ形づくられるのである。思想を芽ばえさせるものは、無数の感覚的な印象・・・・・・作業場、鉱山、裁判所、法律事務書、造船所、施療院などで、道具、材料、業務などを目撃し、顧客、労働者、工作の機械などを目の前にし、よいできばえの仕事や悪いできばえの仕事、金のかかる仕事や儲けのある仕事などをみるときに、青年が日々受けとる無数の感覚的な印象である。それらは、目、耳、手のみならず嗅覚によっても受けとられるそれぞれ特殊な、微細な知性である。これらの近くは、無意識に蒐集され、知らぬ間に消化されて、青年の心のうちで組織だてられると、早番青年に、ある新たな配合や単純化や調節や改良や発明の方法を暗示するようになる。フランスの青年は、これらのあらゆる貴重な接触、これらのあらゆる同化し得る必須な要素を奪われている。そして、ちょうど、創意発明に富む年齢に、七、八年間を通じて学校にとじこめられていて、自分一個の直接経験から遠ざかっている。こうした経験が、人事や、それをあつかう種々な方法についての、正確な生き生きとした観念を青年に与えたにちがいないのに。

・・・・・・少なくとも十中八九の九人までは、時間と労力とを費やし、生涯中の数年を浪費した。それは、有効で重要な、いや決定的でさえある数年である。まず、試験に出頭する者の半数ないし三分の二、すなわち、不合格者の数を数えてみたまえ。ついで、合格者、卒業生、免状所有者、学位所有者のうち、さらにその半数ないし三分の二、すなわち、過度の勉強に疲労した者の数を数えてみたまえ。そういう人々に対してあまりにも多くのことが要求されたのである。つまり、しかじかの日に、椅子に腰かけ、または黒板の前に立って、二時間ひきつづきに、一連の学科について、およそ人間知識の生き字引となることを要求されたのである。事実、彼等は、当日、二時間は生き字引となっていた。いや、ほぼそれとに近いものであった。しかし、一か月も立つと、もはやそうでなくなるから、二度と試験を受けられないかもしれないのだ。修得したことが、あまりにも多く、あまりにも重荷となるので、たえず頭脳からぬけ落ちてしまう。といって、新たな知識も習得できない。その精神力が衰え、豊かな活力が枯渇してしまっているのだ。こうして、成熟した人間が現れるのであるが、それはしばしば、前途にもう見込みのない人間のことである。こういう人間が、身を固め、結婚し、永久に同一の圏内を堂々めぐりすることに甘んじて、自分の限られた職務にとじこもる。自分の職務は几帳面にはたすが、少しもそれ以上には出ない。結局こうなるのが、普通一般のことである。確かに、これでは、間尺に合わない。イギリスやアメリカでは、かつて1789年以前のフランスにおけると同様に、これとは反対の方法を採用しているが、それによる収穫は、当時のフランスと同等か、もしくはそれ以上である」

(つづく)


ギュスターヴ・ル・ボン 「群集心理」

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