橋本治「意見を言う」になると

「意見を言う」になると、「よく分からないから・・・・・・」で、なんにも言わないまんまの人がいる。「今何か問題にされているのか」と言うこともあっさり無視して、自分の言いたいことをいうだけの人もいる。「意見を言う」ということは、「自分の利益=権利を主張することだ」と思い込んでいて、一方的に「自分の意見」とされるものを主張し続けるだけの人間もいる。「聞く」ということが「黙っていること」と同一視されて、「聞く」ということの積極的な意味が一向に理解されていない。

「一方的にいうのは勝手だが、少しはこっちに分かるように説明してくれよ」と思うことは多々なのだが、「意見を言う」をもっぱらにする人のなかには、「ただ主張することこそが意見をいうこと」と考えて、「そのことを説明する」の重要性を理解していない人が結構いる。こういう人に、「ちょっとすいません、よく分からないんですが……」といって説明を求めたりすると、あからさまに、「お前はバカか?」という表情を向けられたりする。「バカに説明なんかしたくない」と思うのか、ろくな答えが返って来なかったりする。

「分らないことは質問する」ということの原則が理解されず、「質問する」の重要性が理解されていない・・・・・・だから、「意見を言う」だけがひとり歩きして、「意見を言うということは、それをきく人間を説得するということであり、少なくとも、“分かるように説明する”ということを必須とするのだ」という重要なことが理解されていない。それで私は「議論の場に向かう」というのが大っ嫌いになったのではあるけれど。

そもそも「質問する」ということの重要性がよく理解されていない。「質問をする」ということがよく分かっていないから、「“質問をする”という形で反対意見を言う」になってしまっている。「質問をする」が、「そのことによって相手に攻撃を加える」にもなるのは、「質問をする」の応用篇であって、そこに至る前の基本篇がはっきりしていないから、「質問はありませんか?」なんて声を聞くと、質問をする側であってもされる側であっても、なんとなく身構えてしまう。「質問をする」というのは、ただ「分からないから説明してもらう」ということだけであるはずだが、時として、説明をする人間が「自分の説明したいように説明する、自分の出来るような形でしか説明できない」ということになっていたりもするので、「質問する」があまり意味をなさなかったりする。

「質問する」があまり意味をなさないという状況が重なると、「それを“分からない”と思って質問する私の頭が悪いから、質問をしたってきっとわからないんだ」と思い込んで、「なんだかよく分らない」という思いを抱えたまま、ただに沈黙を守るということになってしまう。「きちんと質問する」があまり重要視されていないこの日本では、どうも、「バカだと思われてもいいから質問してみよう」というような覚悟が必要になるのかもしれない。私は高校生くらいの頃から、「あのォー」と言って質問するのは結構平気なんだけれども、どうしてそうなったのかと言ったら、周りから「わけの分からないバカ」扱いされていた結果だろうなと思う。「分からないんだからしょうがないじゃん」と思って、人が沈黙している中で、「あのォー」と言って手を挙げるのは結構勇気のいることなんだけれども、その勇気は「バカと思われても挫けない」という質のもので、私としては、「いいんだか、悪いんだか」と思う。

かなり以前に『質問力』というようなタイトルの本を書いてくれないかと言う依頼があって、「あ、いいところに目を付けたな。重要なことなのに」と思ったけれども、それを引き受ける余裕ないのでやめてしまった。「余裕ができたら書いてくれ」と言われても、どうだろう?「他にもっとそういう本を書ける人っているんじゃないんですか」と言っちゃうかもしれない。私にはどうも「質問力を駆使してチャンスをつかめ」というような発想が苦手だが、「質問力」という形になっちゃうと、どうしてもそういう実利的な方向へ進みかねない・・・・・・。

「質問をする」というのは、実のところよく考えるとむずかしい。それは「自分はなにが分からないのか」ということを把握しないと起こりにくいからだ。「分かりますか?」と問われ、調子に乗って「分かりませーん」とは答えたはいいが、「どこが?」と問い返されて、答に詰まったことはありませんか?「全部」と言って、相手がその説明をもう一度分かるようにやり直してくれて、それでまた「分かりました?」と問われて、でもやっぱりわからない・・・・・・ということになった経験て、ありませんか?私は、いくらでもあるような気がするけどな。

「全部」が分からないわけじゃないんだけども、でも、何かがよく分からない。「分からない部分」はあるんだから、質問ができるのならしたいのだけれども、なにを尋ねたらいいのかが分からない・・・・・・「分からない」と思ってしまって頭に靄がかかる構造というのはこういうもんだと思うけれども、「自分はなにが分からないのか」を確定する作業はけっこうむずかしい。かなり時間がかかる。何年も時間がたってから、「あ、あそこのところがモヤモヤして、なんだかよく分からなかったんだ」と気づくことがよくある・・・・・・私の場合は「何十年もたってから」が平気で起こるけど、「どこが分からない、なにが分からない」が確定できてしまうと、そこで問題は「ほぼ解決した」に等しくなっていたりする。

そういう「分からない」に関する重要性を、もっと日本人は大切にした方がいいと思うけどな。


橋本治 「橋本治の立ち止まり方」

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