田川健三「キリスト教思想への招待」 葡萄畑の日雇労働者①

イエスは、「愛」という言葉を使うのを好まなかった。現に、福音書に出てくるせりふで、イエス自身の発言とみなしうるものの中には、批判的に一こと、二こと言及する場合を除き、イエスは「愛」という単語をまったく口にしてはいない。(中略)

一言だけ言っておくと、何せ当時のユダヤ教社会である。熱心なユダヤ教徒は、二言目には、「神を愛せ、隣人を愛せ」と叫んでいた。その言葉の中にこめられた宗教イデオロギーの狭苦しさに、イエスは我慢できなかったのであろう。なかんづく、「隣人」という概念を細かく限定して、自分たちユダヤ民族以外の者は「隣人」扱いせず、自分たちユダヤ民族以外に滅びるべき連中だ、と排除する精神に、とても我慢できなかったのであろう。そのことは、「神を愛し、隣人を愛する」というせりふをめぐってのイエスの問答に、鮮明に出て来る。

と、まあ、こういうことであるが、「愛」という単語なんぞ用いなくても、以上の議論に関係して重要なことは、そこは、イエスのこと、いろいろ言っている。ここでは、非常に重要な話を一つ取り上げよう。有名な葡萄畑の日雇労働者の賃金の譬え話である。(中略)

ある地主が朝早い時刻に出ていって、自分の葡萄畑のために労働者を雇った。労働者と一日、一デナリの約束がなりたって、ブドウ畑に行かせた。ところが第三時(午前九時)ごろにまた広場に出ていくと、仕事にあぶれて立っている者がいたので、地主は言った。

「お前さんたちも、うちの葡萄畑においでなさい。適当な賃金をあげるから」

それで彼らは葡萄畑に行った。地主はまた第六時(正午)と第九時(午後三時)ごろにも出かけていって、同じようにした。最後にまた第十一時(午後五時)ごろにも出ていってみると、まだ何人かの者が立っていたので、話しかけてみた。

「お前さんたちは、どうして一日中ここで仕事もせずに立っているのかね」

「誰も私たちを雇ってくれる人がいなかったからですよ」

「ではお前さんたちも、うちの葡萄畑においでなさい」

夕方になると葡萄畑の主人は執事に命じた。

「労働者を呼んで来て、賃金を支払ないなさい。まず最後の者からはじめて、順に最初の者にまで」

それでまず第十一時に雇われた者が出て来て、それぞれ一デナリずつ受けとった。最初に来た者たちは、自分たちはもっと多くもらえるものと思ったのだが、受けとってみると案に相違して自分たちも同じ一デナリずつだった。それで地主に対して不平を申し立てていった。

「最初に来た連中はほんのいっとき働いただけじゃないですか。お前様はあいつらにも俺たちと同じだけ払いなさるのかね。俺たちはこの暑いのに丸一日苦労して働いたんだ」

これに対し、地主はその中の一人にむかって答えて言った。

「おいおい、おまえさんが文句を言う筋はないだろう。お前さんは一デナリで働く約束をしたんじゃなかったのか。自分の分け前をもらっておとなしく帰んなさい。私は最後に来た人にもお前さんと同じ賃金を払ってやりたいのだ。それとも私が自分の財布から自分のやりたいだけ払うのはけしからん、とでもいうのかね。私が寛大になったからとて、お前さんがやっかむことはないだろう」(マタイ20・1-15)

神学者たちは長年にわたってこの譬え話を神の慈愛についての説教として説明してきた。紙に愛されるに価しない怠慢な罪深き人間に対しても、神はかくも恵み深い、と。神の慈愛を語るのは結構だが、それを言うために、仕事にあぶれた労働者は「怠慢で、罪深い」などと決めつけるのは、やめてくれないかな。労働者が仕事にあぶれるのは、怠慢で、さぼっていたからではなく、運悪くその日の仕事にありつけなかったからである。このことは、譬え話そのものにも書いてあるではないか。「お前さんたちは、どうして一日中ここで仕事もせずに立っているのかね」「誰も私たちを雇ってくれる人がいなかったからですよ」

こうして、神学者たちの解説は、神の慈悲を強調するあまり、労働者の失業という事態について、誤った偏見をふりまくことになる。しかし、その点はまあ別としても、このように「解釈」していると「神の慈愛」だけが、強調されて、肝心の話の中身、つまり労働者の賃金の問題が消えてしまう。「解説」によって話の中身を消し去ってはいけない。イエスは、労働者の賃金の問題を話した。それは、労働者の賃金の問題を話したかったからである。人の話は、その中身に耳を傾けるものだ。

(つづく)


田川健三 「キリスト教思想への招待」

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