小出裕章 鉱毒事件から原発事故まで②

●足尾鉱毒事件の広がり

しかしその陰で、足尾銅山の煙突からは、亜硫酸ガスが大量に放出され、付近一帯の山々は禿山となり、松木村、仁田元村、久蔵村が丸ごと消えてしまった。一方、製錬の残渣は100万平方メートルを超える堆積場を次々と埋め尽くし、今日までの総量では1000万立方メートルを超えた。保水力を失った禿山に雨が降れば簡単に洪水となって堆積場を襲い、銅を主成分とし、鉛、カドミウムなどを含んだ鉱毒が渡良瀬川下流に流れた。時には、降雨にまぎれて、意図的に堆積場から鉱毒が渡良瀬川に流された。そのため、1885年には渡良瀬側での魚の大量死が始まり、87年には渡良瀬川の魚類は死滅した。特に1888年に起きた大洪水では、栃木、群馬の約1600の市町村の田端で鉱毒被害が生じた。

田中正造は栃木県佐野市の庄屋の家に生まれ、栃木県議会議員、議長を経、1890年に初代帝国議会の衆議院議員になった。ただちに、鉱毒被害の追及を始め、1891年には「足尾鉱毒加害の儀につき質問書」を議会に提出し、「栃木県下国上都賀郡足尾銅山より流出するすべての鉱毒は、群馬栃木両県の相田を通ずる渡良瀬川沿岸の各郡村に年々巨万の損害を蒙らしむること、去る明治21年より現今に亘り、毒気はいよいよその度を加え、田畑はもちろん飲用水を害し、堤防草木に至るまで、その害を被り将来なお如何なる惨状を呈するに至るや測り知るべからず。数年政府のこれを緩慢に付し去る理由如何。既往の損害に対する政治の方法如何。将来の損害における防遏(ぼうあつ)の手段如何。」と政府を追及した。しかし、政府は足尾銅山を保護するだけで、住民を救済する方策をとらなかった。被害は拡大し、1892年には洪水で著しい被害が出た。加害者の古河鉱業は被害民と第一回の示談を行い、わずかばかりの金銭を支払った。

1894年には日清戦争が始まり、政府は戦費調達のために足尾銅山の庇護を続けた。当然、鉱毒による被害は増える一方となった。その当時、渡良瀬側は、江戸川となって東京に流れ込んでいたが、鉱毒が東京に流れ込むのを嫌った政府は、1894年に埼玉県関宿で渡良瀬川を銚子に流れる利根川に付け替えた。

被害がますます激しくなって困窮を極めた被害民は、古河と再度の示談に追い込まれることになる。そのとき、古河が作成し農民側に署名を強制した契約書には、次のように書かれていた。

「同銅山御家業により常時不時を論ぜず、鉱毒、土砂、その他渡良瀬沿岸我等所有の土地の迷惑になるべき何等の事故相生じ候とも、損害賠償その他苦情がましき儀一切申し出まじく候」

この条文について、日本についての研究家で英国人のケネス・ストロングは書いている。

「この第二の契約書に記されている文言はとんでもないもので、脅迫されて押しつけられたものではなかったら、また農民たちの田畑の多くが取り返しのつかぬほどの不毛の土地にされてしまって極度の困窮状態におかれているのでなかったとしたら、いくら下野の農民が気が小さいといっても、まともな分別を持った人間がこれに調印することが一体どうしてあり得たのか、ほとんど想像がつかないようなしろものだったのである」

1896年には再度の大洪水が起こり、渡良瀬川、利根川、江戸川流域一府五軒4万6千町歩に鉱毒被害が拡大した。疲弊しきった農民・漁民は1897年、二度にわたって、東京に向けて「押出し」をし、救済を訴えた。

正造さんは、押出しに向かう人びとと呼応して、議会で「被害人民を悉く欺きおおせても、国家は承知しない。被害人民が悉く20銭、30戦の金で誑かされて版をおしても、そんなことは、国家は知らない。国家は大体において、利害の比較を見、人民の権利をどこまでも保護するのである。政府が保護しなければ、我々が保護する・・・・・・。(政府が)人民を保護しなければ、人民は法律を守る義務がない。義務がないのではない。政府が無罪なる人民を強いて、法律を守ることができないようなことを仕向けているのでございます」と追及を続けた。政府は「鉱毒予防命令」を出して、対策をとったように見せかけた。しかし、実質上の効果がないうえ、命令を受けて作られた沈澱池は翌年の洪水で決壊し、渡良瀬川一帯に鉱毒被害はさらに激甚となった。

苦難のどん底に突き落とされた住民は1898年に三回目の押出しに及んだ。そのとき、正造さんはまだ帝国議会の議員であり、押出しに向かう住民を保木間で迎えて、以下のように演説し、押出しを思いとどまらせた。

「一つ、正造は日本の代議士にして、またその加害被害の顛末を知るものである。ゆえに衆に先立って尽力すべきは正造当然の職務である。諸君がすでに非命に斃れるを見る。正造は諸君たちに先んじて死を決しなければならない。もう一つは、現政府は幾分か政党内閣のかたちをなすもので諸君の政府であり、またわれわれの政府である。(中略)政府が事実をはっきり認識ながら、なお鉱業の停止をしないならば、そのときは、もはや諸君の行動を止めない。進退を共にする。先頭に立って行動する。」

しかし政府は何等の対策もとらず、見捨てられた人々は1900年に第四回の押出しを余儀なくされた。疲れ切った被害民たちを利根川に架かる橋がある川俣で警官隊が待ち伏せして弾圧。100余名が逮捕され、51名が兇徒聚衆罪の罪名で起訴された。正造さんは、議会で「関東の真中へ一大砂漠を造られて平気でいる病気の人間が、殺さないようにしてくれいという請願人を、政府が打ち殺すという挙動に出でたる以上は、もはや自ら守るの外は無い。一本の兵器も持っていない人民に、サーベルを持って切りかかり、逃げるものを追うというに至っては如何である。これを亡国でない、日本は天下泰平だと思っているのであるか。」と政府を追及した。

それでも、時の政府が戦争に力を注ぎ、住民を守ろうとしないため、1901年10月、正造さんは「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」を提出し、「民を殺すは国家を殺す也。法を蔑にする也。皆自ら国を毀つ也。財用を濫り民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし、之を奈何」と議場で獅子吼し、議会を捨てた。

その年の12月、正造さんは勝子夫人を離縁し、天皇直訴に及んだ。直訴は資材の可能性もあり、正造さんは自らの命と引き換えに世論の喚起を狙ったのであった。幸か不幸か、その直訴は天皇警護の警官隊によって阻まれ、正造さん自身は狂人として即日釈放された。

正造さんの直訴を受け、一時期世論は足尾鉱毒問題に沸騰したが、それも時の経過とともに忘れられていった。

荒廃した水源地は洪水をますます加速させ、渡良瀬川の堤防は度々決壊するようになったが、国や県はそれを修復するどころか、むしろ意図的に破壊した。そして、鉱毒溜めの池を作るため、栃木県谷中村を水没させることにした。現在の渡良瀬遊水地がそれである。谷中村には450戸、2700人の住民が住んでおり、彼らは鉱毒の被害者であって、加害者ではない。しかし、小さな谷中村は強大な国家の前に無力で、鉱毒によって疲弊させられた生活と借金、国、県、村などの行政、警察などの弾圧によって崩壊させられて行った。1908年には日露戦争が始まり、挙国一致で戦争になだれ込んでいった。正造さんはその年、水没させられようとしている谷中村に入村し、住民と寄り添う道を選んだ。住民たちは一戸また一戸と谷中村を離れていったが、わずかとはいえ19戸の住民はあくまでも国の無法に抵抗を続けた。しかし、ついに1909年、国が土地収用の強制執行を行って、住民の家屋を破壊した。それでも、住民たちは水没を免れた高台に仮小屋を建てて、抵抗を続けた。正造さんは以降1913年に行き倒れるようにして死を迎えるまで、水没させられた谷中村と、その住民に寄り添って過ごした。

(つづく)


『世界』2013年7月 小出裕章「滔々と流れる歴史と抵抗 田中正造没後100年に寄せて」

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