宗教の事件 47 吉本隆明「超20世紀論」

●麻原を皮肉った高橋源一郎のパロディの安っぽさ

・・・・・・小説家の高橋源一郎が「タカハシさん、『オウム』を読む」というエッセイを書いています。その中で高橋源一郎は言葉づかいという観点から、「麻原の世界を受け入れることができない」と批判しつつ、こう書いています。
「麻原さんたちの言葉には、どれも意味は一つずつしか存在しない。麻原さんが『魂の救済』といったら、それはもうわかりきった、たった一つの状態なのだ。麻原さんが『哀しみ』といったら、それは、解脱に向かって救済されるべき一つの状態なのだ。つまんない。タカハシさんはそう思わずにいられなかった、麻原さんの世界には、どんなくだらない詩や小説の一つも入る余地がないのである」「『魂の救済』という受験目標に向かって、教師・生徒一丸となって頑張る世界。それが麻原さんの世界。それが麻原さんの世界だ」と。

吉本 それは高橋源一郎のパロディであって、麻原をからかっているのでしょう。僕は高橋源一郎がいうほど、麻原という人物は簡単な人物ではないと思います。そのパロディでは、麻原の核心に迫ることはできないと思います。
高橋源一郎の小説についていえば、マイナスの要素だけでできている高橋源一郎の小説はいいものです。デビュー作の『さようなら、ギャングたち』がそうでした。でも、それ以降の作品には、ちょっとだけプラスの要素が入ってくるんですね。俗にいう、「いいことをいう」ってやつです。

でも、そうすると、パロディが安っぽくなっちゃうんですよ。麻原について書いたそのパロディにしても、「麻原やオウム真理教は、本来、こうあるべきだ」といったプラスの要素が入ってしまっています。もっと推敲すれば、プラスの要素を全然入れないで、もう少しましなパロディがつくれるはずなんですがね。


●地下鉄サリン事件は次元の違う犯罪行為である

・・・・・・麻原は「タントラ・ヴァジュラヤーナ」(金剛乗)の教養に基づいて殺人をした、という説が一般に流布しています。その教養に基づけば、殺すことによって、その人がさらなる罪を犯すことから救ってあげる、魂の救済をしてあげる、ということになるんだろうです。まったく勝手極まりない話ですが、金剛乗にはそういう解釈を許すところがあるのでしょうか?

吉本 あると思います。天台宗の聖典である法華経の中にも「法華経をないがしろにする者には、刀や杖をもって成敗していいんだ」といったことが、ちゃんと書いてありますからね。

でもオウム真理教の教団内部で信者を殺しちゃったとか、坂本弁護士を殺しちゃったとかいうのは、金剛乗の教義によると、それだけの根拠があってやったものだとは思えないですね。やったというなら、ウカウカとやっちゃったという方が本当じゃないでしょうか。

その点、地下鉄サリン事件は、ちょっと次元の違う事件だと思います。麻原が指令したという事実は、今までのところ出ていませんが、もし、それが本当に事実だとすれば、相当な宗教的根拠がなければできない、次元の違う行為だと思います。

●「造悪論」を生み出した親鸞の「悪人正機説」

・・・・・・「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の有名な「悪人正機説」がありますね。善人は往生を遂げる、悪人だったら、なおさら往生できる、という逆説的な説です。
短絡的に考えると、そうであれば、往生するには積極的に悪をなしたほうがいいじゃないかということになります。現実に、積極的に悪を為したほうがいいという『造悪論』を唱える輩が出てきたわけですが、親鸞自身は、この『造悪論』を本当はどう考えていたのでしょうか。

吉本 親鸞が生きていた当時から、その『造悪論』に基づいて、悪いことを実際にやってしまった親鸞の弟子たちがいます。それで、あるとき、親鸞に忠実な弟子が、『造悪論』の是非について親鸞に尋ねているのですが、それに対して親鸞は、「悪人の方が往生しやすいということと、進んで悪を為したほうがいいということとは、まるで次元が違うことだ」と述べています。

また、「いい薬があるからといって、わざわざ病気になるやつはいないだろう」とも述べています。でも、これは、ちょっと消極的ないい方であって、これでもって、すべて納得できる論理になっているかといえば、僕はそうは思わないですね。

親鸞は、「進んで悪を為そうが、何をしようが、それでも往生するよ」といっていると思います。

・・・・・・「進んで悪をなしても往生する」というのは、つまり、親鸞は、浄土における善悪の基準は、現世の人間の善悪の基準とちがっていると考えているということですか?

吉本 そうだと思います。親鸞は、「善悪の基準の規模が違うんだ」といっていると思います。もっとわかりやすく言えば、現世よりも来世(浄土)においてのほうが、善悪の規模が広大なんだ、無限に広いのだ、現世の人間が考える善悪というものと、浄土におけるそれとはまるでスケールが違っているんだ、と親鸞はいいたいのだと思います。


(つづく)


吉本隆明「超20世紀論」

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