ブーアスティン「幻影の時代」同義反復

雑誌や新聞の読者が、もはや彼らの英雄の伝記をためになるものとみなさなくなったとしても驚くには当たらない。通俗伝記は、ほんのわずかしか事実にもとづいたものを提供していない。なぜなら、主人公自身がマスコミが作り出した虚像だからである。もし彼らの生涯に劇的事件や功績がなくても、われわれは少しも驚かない。なぜなら、彼らは劇的事件や功績ゆえに人に知られているでのはないから。彼らは有名人なのである。かれらが有名なのはその名声ゆえであり、彼らが悪名高いのはその悪名のゆえである。このようないい方が不思議であり異様であり、また単なる同義反復であるとしても、われわれの他の多くの経験にくらべて、とくにふしぎであり異常であり、同義反復的であるわけではない。われわれの経験は、ますます同義反復・・・同じことの異なる言葉・イメジによる不必要な反復・・・となりつつある。われわれを苦しめるものは、肉体的病気ではなくて、「空虚感」なのである。われわれは経験のむなしさを人工的に満たそうとして、さまざまな機械的工夫を熱心にあやつるが、それはいっそうむなしいものとなった。注目すべきことは、われわれがかくも大きな空虚さにかくも魅力に富んだ変化を与えることができるということである。

「彼は最も偉大な人物だ」とわれわれは無理にもいおうとする。有名人に関する描写は、最上級の形容詞でいっぱいである。大衆雑誌の伝記記事も同様である。ピングリー博士は「アメリカでもっともよく広告された医者」、ある俳優は「今日の映画界で最も幸運な男性」、リングリングサーカスの誰それは「一家の中で最も偉大なばかりでなく、最初のショウマン」、ある将軍は「アインシュタイン以来の最も卓越した数学者」、あるコラムニストは「最も奇妙な婚約」をし、ある政治家は「世界で最も刺激的な仕事」を持っており、あるスポーツマンは「もっとも大きな声を出し、最も口汚くののしり」、ある新聞記者は「アメリカ中で最も首尾一貫して怒りっぽい人の一人」、ある元国王の愛人は「歴史上最も不幸な女性の一人」である。しかし、レッテルには「超特級の」と書いてあっても、中味はきわめてありふれたものなのである。レオ・ローエンソールの言葉に従えば、われわれが読みたがる有名人の伝記は、「苦難」と「運」のカタログにしかすぎない。これらの男女は「平均人の見本」である。

これらの新しい「英雄」は、もはやわれわれに目的を与えてくれる存在ではなくて、われわれ自身の無目的性をそのなかにそそぎ込むための容れ物である。彼らは、拡大鏡を通してみたわれわれ自身以外のなにものでもない。それゆえ、芸能有名人の伝説は、われわれの視野を広げてはくれない。われわれの視界は、わかりきった男女の姿でいっぱいになる。『有名人名簿』の広告が適切に述べているように、有名人とは「かつてはニュースによって作り出され、今では逆にニュースを作り出す『名簿』のことである」。名声は人に知られることによって作られ、マスコミによって刺激され、補強される。有名人は、それゆえ、「もっともよく知られているものは最もよく知られているものである」という同義反復の完全な具現者である。


D.J.ブーアスティン 「幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実」

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