村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」 会話は打ちきられた

相手が回線から離れたというメッセージを画面が伝える。会話は打ちきられたのだ。僕はそれでも画面を睨んで、そこに何かの変化が起きるのを待つ。クミコは思い直しまた戻ってくるかもしれない。何か言い忘れたことを思いだすかもしれない。しかしクミコは戻ってこない。二十分ばかり待ってから僕はやっとあきらめる。画面をセーブして席を立ち、キッチンに行って冷たい水を飲む。僕はしばらくのあいだ頭を空っぽにし、冷蔵庫の前で息を整える。あたりはおそろしく静かだった。世界中がぼくの思考に向かってじっと耳をすませているような気さえする。でも僕は何も考えることができない。悪いけれど何も考えられない。

僕はコンピューターの前に戻り、椅子に腰を下ろし、青い画面の上でのやりとりをもう一度始めから終りまで注意深く読みかえしてみる。僕が何を言ったか、彼女が何を言ったか。それについて僕が何を言ったか、彼女が何を言ったか。我々の会話は画面の上にそのまま残されている。そこには不思議に生々しいものがある。画面の上に並んだ字を目で追いながら、僕は彼女の声を聞き取ることができる。その抑揚や、微妙な声のトーンや間の取り方を、僕は知ることができる。カーソルは最後の行の上でまだ心臓の鼓動のような規則的な点滅を続けている。次の言葉が発せられるのを息を殺して待ち続けている。でもそこに続く言葉はない。

僕はそこにある会話のすべてを頭にしっかりと刻み込んでから(おそらくプリントアウトしない方がいいだろうと僕は判断する)、ボックスをクリックし通信モードを離れる。オペレーション・ファイルに記録を残さない指示を与え、操作にやり残しがないことを確認してから電源をシャットオフする。モニターの画面はコール音とともに白く息絶える。単調な機械音が部屋の沈黙のなかに飲み込まれる。虚無の手によってもぎ取られてしまった鮮やかな夢のように。


村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」

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