宗教の事件 10 「オウムと近代国家」より 三島浩司

●結局、人間は何でもしよる

・・・・・・ただ、シンポジウムでの三島さんの岐部哲也裁判の話では、オウム裁判は水ものというより、漠然としたかなり悪い異例の裁判のようですね。その話もすこし伺いたいのですが、その前に被告人の岐部のことを、報道などで知る限り、どうも彼は麻原なんかとは違ったタイプの人間のようですね。

三島 全然タイプが違うような感じを受けるね。岐部の場合は非常に小乗的というかね、修行に没入して、そこで安心立命を得たいという願望が極めて強いように思う、実際、修行にはずいぶん熱心だったらしい。

・・・・・・岐部は元デザイナーで、ユーミンのレコードのジャケットのデザインなども手懸けていたといわれていますね。あの業界は時代の先端部分に関わる派手なところだけど、広告的政界独特の虚飾の要素を多分に持った世界でもありますよね。陳腐なもの言いだけど、入信の動機はそんな虚の生業に嫌気がさしたということもあるんですか。

三島 それはもの凄くあったみたいだね。彼が宗教に興味を抱くきっかけとなったのは、中沢新一の『虹の階梯』だった。
・・・・・・ああ、やっぱり。でも、それはよくわかる。

三島 ご承知のようにあの本は、中沢とチベット僧の対論からなるチベット仏教の本なのだけど、彼は何度も何度も読み返したらしい。それもあって、デザインの虚の世界から宗教の実の世界に身を置きたいと思い至ったようだね。

生臭い虚飾の世界はもういい、という思いが強かった。だから、オウムが選挙に出ることや宗教法人化することに反対している。それで、同じく反対した上祐史浩ともども教団の中枢から外されでるんです。それが幸いして、「防衛庁長官」という教団の行為になりながら、一連の事件にはかかわっていない。岐部は小乗的な修行専一主義者だったと思いますね。ただし、それは大半のオウムの信者も同じであって、むしろ麻原のように大乗的志向を持った者のほうが、オウムでは少数派だったようです。

ただ、岐部といろいろ話をして感じたのは、修行専一主義というのは危険ではないのか、ということなんですよ。私なんかの認識では、宗教は修行より倫理に力点が置かれるべきものだと思うのだけど、岐部たちの場合は修行が自己目的化されているように思う。修行は仏教的な自在な境地に至るための手段にすぎないと思うのだけどね。修行が自己目的化されると、修行そのもので宗教的快感を得ようとしますわな。だから、クスリを使うのも当然のなりゆきになると思うね。

そういう宗教談義はともかくとして、岐部は真面目でしっかりした男ですよ。彼はまだ脱会してなくて、それゆえに実刑をくらったのだけど、脱会しない理由は自分が入信させた信者に対する責任感なんです。岐部は百人ほど入信させているのですが、まだ上九一色村にその信者がかなり残っている。上九一色村に乗り込んで、彼らにオウムがやったことを直接説明するつもりなんです。それが、少なくとも彼らを入信させた自分の責任であり、それを終えるまでは自分の進退を決することはできない、と本気で考えているんです。今回の判決で、もし釈放されていたら、おそらくただちに上九一色村へ出かけたでしょうね。

・・・・・・ほう、いいものじゃないですか、その責任感は。で、その岐部裁判なんですが、問題点は裁判所側が世間の空気に配慮して、本来は行った行為だけに焦点を当てて厳正に裁くべきところを被告の身分、つまり教団での地位や脱会しているか否かによって量刑に差をつける、ということだったわけですね。

三島 そうです。脱会していないものは実刑を課すなど、量刑が重くなってますね。現に後半の家庭でも、裁判官は岐部に脱会の意思があるかないかをずいぶん気にしていたね。これはほかのオウム裁判でも同じだったらしいけどね。まあ、それでもいいんやけどね。ただ、私が裁判官に言いたいのは、「彼らが脱会して帰っていく世間にそんなええとこあるのか。あんた、自信もってそんなこと言うとんのか」ということなんだ。

これが戦前なら、まだ話はわかる。共産党員を転向させて天皇陛下の赤子に返すという筋道があった。でも、いまは行き先などないじゃないか。社会のほうに国家的・国民的理念など何もないからね。「オウムを脱会します。でも、その後どこへ行けばいいんですか」と訊かれたら、誰でも返答に窮してしまう。帰るところがないというのが戦後的価値であるとの考え方もあるけれども、少なくとも、「右のポッケにゃ夢がある」(美空ひばりの『東京キッド』の一節)の延長にわれわれはまだ戦前的な共同体に代わる実体をつくりだしてないのではないか。その意味では、戦前よりもひどいことになっていると思うね。

・・・・・・その、「こっちへ戻ってらっしゃい」というけど、そんなに戻ってええ世間なんてどこにもないで、という違和感は、違和感そのものにとどまる限りにおいて僕もほぼ共感できるのですが、ただ、それが違和感であることをいきなり超越してなにか現実的な立場をいきなり獲得しようとする時に、発言した側の意図や目算とは別に、かなりずさんな様相を呈する時がある。しかしその違和感をいきなり立場に直結させようとする営みがずさんなのとまったく同等に、そのような違和感が現実に存在しえることの問題までも、今回の一連の事態が制度にとって異常であり、だからこそ緊急避難的な措置をとらざるを得なかったということに居直って、なかったことにしようというのも、また短絡的だと思いますね。まして裁判所までがそのような短絡的な回路に同調しているとなれば、これはまた別の問題ですよ。

「俗情との結託」なんて大仰なもの言いもこういう場合にこそ使われるべきで、いずれにしても我々「戦後」の言語空間がないがしろにしてきたナショナリティとアイデンティティの問題、「われわれ」とは何か、という問題を突きつけられているということなんでしょうね。

いまのところオウムがらみの裁判に関して、世間では「あの極悪非道のオウムを弁護するとは何事だ」という感覚一辺倒ですが、この点についてはどう感じますか。

三島 世間の人がそういう感覚を持つのは当然のことであって、腹が立ったらその感情をごまかさずに吐露することは大切なことだと思う。犯罪の予防効果もあるしね。

しかし、職業としての弁護士の立場は哀しいかな違うんです。フランスの哲学者アランは「人間を信ずべき百千の理由がある。しかしなお、人間を信ずべからず百千の理由もまたある」といってますが、この信と不信のあやういバランスのなかで物事に関与していかざるを得ない。因果な商売なんですよ。ただ、被告人の陥った場のなかから世界に光をあてることも少しは意味があるのではないか。極悪非道というけれど、人間のやることの程度に線は引けない。

・・・・・・人間、なんでもしよるで、と。結局つきつめたところでは何でもあり、というのがわれわれの現実ですからね。

三島 そう。極悪非道も含めて、人間というのはどんなことでもするものだ、という認識を持つだけでも大きな成熟ですよ。日本はお茶漬け民族だからおとなしいけど、中国などは人間のやることのスケールがまるで違う。文化大革命なんかはもうむちゃくちゃですよ、死者の数にしても。私は中国が好きで友人も多いけど、中国人の凄いところは、人間は何でもするのだということをよくわかっている点だと思う。

・・・・・・戦後的人間観には、悪い意味での清潔さがあって、「人間、なんでもしよるで」という諦めがない。これは、良い意味での「いや、人間ちょぼちょぼやで」に通じてくる考え方でもあると思うんですが、人間やその生に対するこの種の理解の仕方が本当になくなってきた。僕は嫌なんですよ、それが。かつてのべ平連的なるものに連なる市民主義的な意味でない、もっと懐の深い意味での「人間、同じようなもんやで」の発想があっていいじゃないか、と思う。

三島 「人間何でもしよる」と「いや、人間ちょぼちょぼやで」のふたつの考え方がしっかりあれば、これはすごいことですよ。日本人がこの発想を持てば、それこそ共和国が実現するかもしれない。しかし、この発想なしではとても無理だな。

格好をつけるようだけども、勝海舟の言葉に「行蔵は吾にあり。毀誉は吾にあらず」というのがある。他人は何でも勝手にいう撮ったらよろしい、俺はそんなところで評価してもらおうとは思ってない、ということなんだけど、これを上方ふうに表現すれば、「おかあちゃんに恥じるところがなければ、何をやってもいい」ということですね。「俺は不細工なものではあるが、いまのところ何も恥じるところはない」とおふくろに言えたらいい。そんなふうに思ってるんですがね。

・・・・・・それは「お天道様に恥ずかしくないのか」というものさしにも共通していますよね。

(つづく)


「オウムと近代国家」(南風社)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?