三島由紀夫「そこでは孤独が猖獗している。

「そこでは孤独が猖獗している。あの青年の蒼ざめた顔には、孤独の病菌が充満している。そういう人間は、何かちょっとした手ぶり、ちょっとした口の利き方でも人々に嫌われ、孤独を伝染(うつ)す惧れのある人間として、しらずしらず隔離されてしまう。(そして私自身も、かつて、そういう孤独を知らぬではない。)

そうだ。いま私は多少の軽侮と多少の親しみをこめて、「あいつ」と呼ぼう。

あいつが朝起きる。おそらく歯ぐらいは磨いたろう。その歯磨粉にむせかえるときに、すでにあいつの口のなかは、孤独の灰でいっぱいになっていた。(それも私は知らぬではない)

あいつが自炊の味噌汁を炊く。味噌汁が吹きこぼれて、瓦斯の焔がいやな匂いを立てる。そのときもあいつの鼻腔は、孤独の匂いでいっぱいに充たされたのだ。

便所の中も、電車の中も、ごみ箱の中も、どこも孤独で充満していた。あいつが煙草を買えば、その煙草は決って湿っていて、なかなか火がつかなかった。あいつが馬券を買えばみんな空籤だった。そしてあいつが勤めに出れば、輪転機の機械油の匂いは、世界終末の匂いを立てていた。

あいつが机の抽斗をあければ、そこから孤独がすぐ顔をのぞかせた。そして孤独と共に、そこはいつも<私>がいたのだ。」

三島由紀夫 「荒野より」

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