辺見庸 パノプティコン

わたしたちはなんでも見える。けれども、なんにも見えてやしない。ただ、徴があるだけだ。多少の徴があっただけだ。徴はしるしであるかぎり、目には見えない。感じるしかない。感じようとするしかない。

万視塔または一望監視施設(パノプティコン)。わたしたちはその住人である。わたしたちはその囚人である。わたしたちはどうじにその看守である。わたしたちはいつでも他をながめることができる。ながめることができるとおもっている。そう過信していた。しかし、わたしたちは他のなにが見えるというのだ。パノプティコンは、ムバラクやカダフィがたおれるのを予見できはしなかった。万視塔は、もともと英国の思想家J・ベンサム(1748-1832)が考案した、効率的に囚人を監視し、どうじに囚人の矯正もできるという監獄のことである。ついに建設されることのなかったそれは、円の形に配された沢山の監房が円の中心に立つ看守塔をかこむように設計されており、囚人たちはたがいを見ることはできず、遮蔽物などによって看守のすがたを見ることもできない。けれども、看守は円の中心に屹立する、たとえばスカイツリーのような塔から、すべての囚人のようすをながめるというしかけだった。インターネットはそのアイディアを無意識に受けつぎ発展させた。おそらく21世紀のパノプティコンである。無数の監視カメラ、スパイ衛星、テレビ、携帯電話もパノプティコンだ。そこでは、看守と囚人の境界がない。わたしたちはこもごも看守となり、囚人となる。わたしたちはパノプティコンの住人である。わたしはある日は囚人であり、またある日はその看守である。21世紀のパノプティコンはほとんど万能である。万能と信じこまされている。わたしたちは世界のなんでも見ることができる。フランスのネコが水洗トイレの便座にまたがって大便をする映像から、リビアで蜂起した人々が機銃掃射でうち殺されるシーンまで、なんでも、即座に、くりかえし、わたしたちはながめながら、ながめられている。他を監視しながら、他に監視されている。なんでも見える。なんでも見られる。見えないものがいくつもある。パノプティコンからはひとの内心のふかみが見えない。万視塔からは未来のものすごさが見えない。未来の徴が見えない。終わりの徴が見えない。パノプティコンが見るものは現在の諸現象だけである。それら諸現象がよってきたる本質は、「ない」とされる。パノプティコンでは、理不尽な制度への抵抗と批判と疑問の精神が、その全基盤事、ねこそぎ、合理的に、民主的に、円滑に、じょじょに、たのしく、無意識に、うばいさられる。パノプティコンの現在は、そのまま百パーセント、未来へとつづくだろう。


辺見庸 「死と滅亡のパンセ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?