宗教の事件 42 吉本隆明「超20世紀論」

●裁判で奇行を演じても麻原に対する評価は変わらない

・・・・・・オウム真理教の元広報局長だった早坂武禮(たけのり)が、『オウムはなぜ暴走したか。』(1998年刊)という本を出しました。早坂は、“オウムのすべて”である麻原が、真相を明らかにしてくれないことには、自分の中でオウム騒動が本当の意味で解決することはない、と述べています。
また、村上春樹の『約束された場所で』に登場する高橋秀利というオウム真理教の元信者は、オウムの犯罪は単なる暴走ではなく、明確な宗教的目的があったはずだ、それをきっちり説明できるのは麻原と刺殺された村井秀夫だけだろう、と述べています。
両者とも、麻原が事件の真相を明らかにしてくれることを切望しているわけですが、元信者としては当然の声ですね。

吉本 確かに、「全貌はこうだ」と麻原がいったら、スッキリするとは思いますが、裁判をしているときに、それをいうことは、スキを見せることになり、単なる法律次元の法廷闘争という枠組みに組み込まれてしまうことを意味しますからね。なかなか、いわないだろうとな、とは思います。
高橋秀利という元信者はテレビにも出ていて、その発言を聞いたことがありますが、思想性という面でいえば、あの程度の人は、かつての全学連にはウジャウジャいました。あの程度の人の思想的レベルと、麻原のそれとを比べることはできないんじゃないでしょうか。

日本の国法に基づく裁判で、被告が堂々と自分たちの思想を述べたというのは、2・26事件や5・15事件で逮捕された右翼の軍人たちだけです。彼らは、自分たちが確信犯であった事を堂々と述べ、天皇のためにやったにもかかわらず、理解してもらえない、天皇に対して不満である、ということも述べています。

それに比べて、左翼系の被告を裁く裁判では、被告が完全黙秘するというのが常道になっているんです。それは、『仲間を売った』といわれないためのアリバイのためですが。

・・・・・・麻原が裁判で奇行を演じているのは、精神に異常をきたしているためである、ということも考えられませんか?

吉本 そういう想像もできます。あれだけ世間から袋叩きにあい、何年間も留置されていれば、その精神的ストレスは言語に絶するものがあるはずですからね。精神的に耐えかねる、キツくてやってられない、それでぶつぶつ独り言をいったりする、ということはありえます。

僕も世論のすさまじい反発を経験しましたね。その世論の反発は、僕が麻原を宗教家として評価したということに対してではなく、「オウム真理教の事件を単なる殺人鬼集団の犯行とみなしてはいけない」と僕が書いたことに対するものでしたが、僕の家には電話やハガキなどによって抗議の声がたくさん舞い込んで、まったく狂気染みていました。そのとき現在の市民社会というのは、「ひでえもんだな」ということを身をもって体験しました。

でも、仮に麻原が精神的に少しおかしくなっているとしても、僕の麻原に対する宗教家としての評価が下がるかといえば、そんなことはありません。宗教家としてどんなに優れていても、これだけの圧迫をはねのけるなんてことは、そう簡単にはできないことですから。

キリストにしても、捕まる前日、弟子たちの前でユダのことを暗に指して、「この中の一人が自分を裏切るだろう」といってみたり、弟子たちのいないところで、一人で祈りを捧げながら、「憂いて死ぬばかり」をいうような状態だったりしているわけですからね。

もちろん僕はオウム真理教のシンパじゃありません。ただ、麻原を単なる殺人鬼と決めつけてこの事件を扱ったら、真相は全然わからない、麻原をちゃんと宗教家として認めたうえで、モノを語らないと間違うよ、ということをいっているわけです。

村上春樹にも、そういうことを、きちっといってほしいと思います。佐木隆三だって、そのくらいのことはいうべきですよ。そうじゃなきゃ、「お前ら、とてもインテリ面なんかできないよ」って思います。


(つづく)


吉本隆明 「超20世紀論」

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