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北京オリンピックで感じた"ルール"とその本質

北京オリンピックの高梨沙羅選手の失格やROCのカミラ・ワリエワ選手のドーピング問題を考える。

高梨選手の場合は、試合直前のチェックではOKが出て、試合後に失格になる。そんなルールがあることにまず驚いた。
選手の気持ちを想像すると辛い。
スーツの微妙な違いによって飛距離は変わる。決められたルールの中で、極限まで追い込み、技術も進歩させ、道具も追求する。そうやって進化してきた。
大ジャンプを決めて戻ってきたところで、天から地へと落とされた。
その原因がどこにあるのかは僕にはわからない。でも、このルールの構造が、スポーツの本来の目的と合致しているのか、他のやり方は本当にないのだろうかと思いを巡らせてしまった。

ワリエワ選手のドーピング問題も悩ましい。FAIR PLAY の下で争うからスポーツは美しい。勝敗を超えた感動がある。その精神が蔑ろにされているように感じる。
こちらも本当の問題は僕にはわからない。
個人種目で、SPで1位・最終滑走者になった15歳の少女が、試合前から多大なるプレッシャーに追い込まれ、良くない精神状態で本番を迎えてしまう。そして、どう演技したら良いのかわからず失敗を重ねる。そのシーンを全世界が観ていた。
メダルを取れなかったのは仕方ないのでは、というようなことも言われていただろう。もし見事金メダルを取っていたとしても遺恨が残ったに違いない。本当にいたたまれない気持ちになった。
彼女はスケートを辞めてしまうのではないか?とも思った。
何らかの外的理由が、楽しかったはずのスケートやスポーツを楽しめなくなる環境を作ってしまうのは、寂し過ぎると改めて感じた。
選手を守るための組織がきちんとあるのかも気になった。

ドーピング問題で揺れていた女子フィギュアだったが、銅メダルに輝いた坂本花織選手のパフォーマンスや終了後の笑顔には、感動した。坂本選手も同様に集中することが難しい状況だったと思うが、見事に乗り切った。日本中が感動したのではないかと思う。

ドーピング禁止のルールは、スポーツの公平性とともに選手の体を守るという理念のもとにある。その本質をしっかりと守らなくてはならない。
ドーピングだけでなく、いまだにあると聞く無闇な練習や体罰は、本当に選手の体を大切にした指導だろうか。コーチが正しく設計し、適度なプレッシャーもプラスに変えながらスポーツに取り組めるような環境を作っていかないといけない。

常に「そのルールはなんのためにあるのか?」と問い、その本質を見極めて、場合によってはルール自体を変えていく。この発想が大事だと感じている。

世の中も同様である。誰かが不当な扱いを受けるような、時代に合わない決まり・ルールはどんどんと変えていかないといけない。変化を作る人、変革をする人が次々と生まれる世の中になってほしい。
オリンピックの舞台で起きたことを対岸の火事と捉えずに、そもそもルールとは?Fairness とは?と改めて考える機会としたい。






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