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【この歌詞が凄い!】#2 A Song For ×× /浜崎あゆみ


【はじめに〜なぜ過小評価されるのか】

浜崎あゆみのCDの総売り上げ枚数は5000万枚超。これは日本の女性ソロアーティスト歴代1位で、全体で見てもB'z、Mr.Children、AKB48に次ぐ数字だが、この数字ほどの「音楽的評価」を得られているだろうか。

もちろん「CD売り上げ枚数」という指標に昔ほどの意味はない。
ミリオンヒットを連発していた90年代は日本がバブルだったこともあり、明らかに「売れすぎていた」し、特に2010年代初頭は「握手券商法」によって、まさにAKBがオリコンチャートの価値を壊した。
しかし、あゆの「全盛期」はその間にあるゼロ年代であり、B'z、Mr.Children、AKB48とは状況が異なる。

椎名林檎、宇多田ヒカル、aiko...他のどんなアーティストよりも売れたのに、「音楽史」という観点から語られることは余りにも少ない。おそらくその理由の一つには、彼女が作曲をしないことがあるかもしれない。
椎名林檎も宇多田ヒカルもaikoも自作自演の「アーティスト」だが、あゆはそこにカテゴライズされない。
だが「アイドル」でもない。なぜならあゆは全曲を作詞しているからだ。つまりあゆはあゆなのである。それ以外、ピッタリくる言葉が思いつかない。

また、B'z、Mr.Children、あゆの3組に共通するのは、「B'zしか聴かない」「ミスチルしか聴かない」「あゆしか聴かない」巨大なファンダムの存在ではないだろうか。音楽が好きというよりB'zが好き、ミスチルが好きという友人は学生時代にも何人かいた。
私はまず音楽が好きな人間だったので、そうした友人を「音楽的探究心の少ない人」だと感じていた。B'zの元ネタである英米のハードロックや、ミスチルの参照元であるビートルズをなぜ掘らないのだろうと。

しかし、「○○しか聴かない」人達は「音ではなく言葉」を聴いているのではないかーー最近になって、そう考えたのである。
「このギターリフは□□のオマージュ」とか、「このコード進行は△△と同じ」なんかより、その詞世界に没入しているのではないか。
前置きが長くなったが、私が言いたいのは浜崎あゆみは稀代の作詞家でもあると言うことだ。確かに決して技巧的ではない。ほど恋愛しか歌わないし、タイトルにはやたらとアルファベットが多い。(バイリンガルな宇多田ヒカルの自然な言語感覚に対して、意味も知らずに英字Tシャツを着ているような印象)

それでも、日本中に住む女性たちに支持された理由が、この「A Song for XX」にすべて詰まっていると私は思う。

【テーマは親との決別】

端的に言えば、これは「親との決別」の歌だ。大人になった主人公が、昔の自分と親を回想している。

どうして泣いているの
どうして迷ってるの
どうして立ち止まるの
ねえ教えて
いつから大人になる
いつまで子どもでいいの
どこから走ってきて
ねえどこまで走るの

一連の呼びかけ、主語は「現在のあゆ」だが、質問の相手である目的語は意図的にごちゃごちゃになっている。「泣いて」「迷って」「立ち止まる」のは「少女の頃のあゆ」だが、「いつから大人になる」「いつまで子どもでいいの」「どこまで走るの」と尋ねる相手は、母親かもしれないし、曖昧で輪郭の無い社会そのものとも受け取れる。

居場所がなかった見つからなかった
未来には期待出来るのか分からずに

ここで親からのネグレクトが暗示される。母、まり子はあゆが3歳の時に離婚。実業家として活躍する一方、育児に十分に向き合う母親ではなかったと、あゆ自身が回想している。

「ネグレクト」と書くと、言葉が強すぎてギョッとしてしまうかもしれない。そこには程度の問題があり、当然グラデーションは存在する。
しかし、「仕事も育児も両立する母親」という対外的評価と、娘の実感にギャップがあることは、現代では特に普遍的な事象だろう。
少年少女が非行に走る原因に格差・貧困の問題はもちろんあるが、それ以上に「孤独」があるはずである。「ひとり親だから子どもがグレる」「家が貧乏だから子どもが万引きする」というのは酷く短絡的で、家が金持ちであっても親がかまってくれなければ、子どもは肯定感を持てなくなる
特に多くの人にとって10代は、家と学校以外の世界が存在せず「逃げ場がない」時期である。

いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
そんな言葉ひとつも望んでなかった
だから解らないフリをしていた

「いつも強い子だね」「泣かないで偉いね」と言う人はベビーシッターなのかもしれないし、親族なのかもしれない。本当の望みは「そばにいてほしい」だけなのに、母はそうしなかった。

【アダルト・チルドレン】

どうして笑ってるの
どうしてそばにいるの
どうして離れてくの
ねえ教えて
いつから強くなった
いつから弱さ感じた
いつまで待っていれば
解り合える日が来る

2番では最初、呼びかけの相手が母になる。「笑って」いて、「そばにい」て、「離れてく」のは母だ。
自分のことを愛しているはずなのに、なぜいなくなってしまうのか。ということは、自分のことを愛していないか。でも、それならなぜ笑うのか。
この矛盾、飲みこめなさを生存本能として飲みこみ、あゆは「アダルト・チルドレン」化していく。
※ここでのアダルト・チルドレンとは、宮台真司が『終わりなき日常を生きろ』で定義した、「子どもの頃から大人でなければならなかった人達」を意味する。

呼びかけは後半で、相手が「過去の自分」へと変わる。
アダルト・チルドレン化、つまり心を武装化した状態は「強く」もあり、しかし実際はあくまで子どもなので脆い存在だ。「解り合える日」が来ない諦観と、それでも消せない希望がアンビバレントに存在している状況を、現在の自分が俯瞰する。

【ギャル=承認を取り戻す闘い】

もう陽が昇るねそろそろ行かなきゃ
いつまでも同じ所にはいられない

この歌詞が、今作の白眉。母だけでなく「子ども時代」との決別も宣言している。あゆが日本中の女性のカリスマになった理由も端的にここに表れている。再び『終わりなき日常を生きろ』を引用すると、
自明となった「輝きのない未来」を受け入れ、「終わらない日常」を戯れるスキルを身につける点で、女の子はどんなに少なく見積もっても、男の子たちより十年は先行していると、宮台は指摘する。

居場所はないし、親との不和の解消も諦める。しかし、それは生きる理由を喪失するわけでもないし、まして社会を恨んで自暴自棄になるわけでもない。自分の居場所を自分で作っていくのである。友達とつるむことだったり、恋愛をすることであり、もっといえばギャルになるなのだ。

私は恋愛一辺倒なあゆや、そのファンダムを「いい年していつまでも大人になりきれない人達」だと誤解していた。実際は、早くに大人にならざるをえなかった分、承認を取り返す日々を過ごしている人達なのかもしれない。

人を信じる事っていつか裏切られ
はねつけられる事と同じと思っていたよ
あの頃そんな力どこにもなかった
きっと色んなこと知り過ぎていた

いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
そんな風に周りが言えば言う程に
笑うことさえ苦痛になってた

一人きりで生まれて一人きりで生きて行く
きっとそんな毎日が当たり前と思ってた

人を信じる=裏切られるだと思って「いた」や、一人きりで生きて行くと思って「いた」と、過去が強調されるのは、逆説的に現在の自分が救済されたことを意味する。居場所を自分で見つけ、自分なりの愛を見付けることが出来たのだと。

【毒親の予言】

調べたわけではないが、日本でここまで直接的に親を批判したポップミュージックはないと思う。もちろん親世代と対立し、乗り越えることを目指したフォークという文化はあるが、あゆの場合はそうした脳みそで考えたイデオロギー的なものではなく、もっと心の叫びであり身体性を伴っている。
この歌の一番最後は「ラララ〜ラララ〜」と言葉ではないのだが、それが言語化できないけど、とにかくやりきれない思いを叫びたいという「表現」でもあり、誰もが口ずさめるための「商品」にもなっている

近年の記事を読む限り、あゆは母との確執を乗り越え、良好な関係を築いているようだ。しかし、歌詞はまだ「毒親」という言葉が浸透する以前に、それを予言している。

前述したように、そこに貧富は関係ない。個人主義が進み、親と子のあり方が変化した平成生まれ以降の人間なら、誰もが共感できる話だと思う。

だからこそ、東京の渋谷という局地的な流行でしかなかった「ギャル」という文化を、あゆは日本中のロードサイドに広げることが出来たのだと思う。あの時代の10代女子の誰もがあゆになりたかったのだと思う。

結論、やはりあゆは稀代の作詞家だ。


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