『マッドマックス 怒りのデスロード』(2015年)映画評〜これは事実上のクロサワ映画だ
※この文章は2015年の公開当時に書いたものです。
<あらすじ>
石油も、そして水も尽きかけた世界。主人公は、愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている元・警官マックス。資源を独占し、恐怖と暴力で民衆を支配するジョーの軍団に捕われたマックスは、反逆を企てるジョーの右腕フュリオサ、配下の全身白塗りの男ニュークスと共に、ジョーに捕われた美女たちを引き連れ、自由への逃走を開始する。
【喝だ!by.ジョージ・ミラー】
30年前の前作「マッドマックス サンダードーム」で、ジョージ・ミラー監督はこれからの若い世代には負の遺産を背負わずに自分たちで新たな希望ある未来を切り開いて欲しいと考え、その想いを映画に込めたのではないかという話をしました。
ところがそれから30年で、ミラー監督の楽観的希望は見事に打ち崩されてしまったのです。物に溢れ、メディアに並ぶ「ライフスタイル」に踊らされる軟弱な若者たち。70歳になる監督はこの「怒りのデスロード」で、我々にサンデーモーニングのハリーばりに「喝!」を入れてくれたのです。
舞台となるウェイストランド(浪費された土地と言う意味)は、核戦争後の荒廃とした地域。貨幣経済は崩壊し、一番貴重な資源は「水」なのです。分かりますか?水道水があるのにわざわざコンビニでミネラルウォーター買ってるこの贅沢なご時世にですよ笑。
マッドマックスの世界は究極にシンプルなんです。人間が生きていくために最も必要な物質である水を、イモータン・ジョーという老人が掌握している。人民は生きていくために彼の奴隷となりさがって搾取される。ジョーは、若い女を妻にしてはべらせ、彼女たちにボコボコ子どもを産ませます。女達は中年になると、母乳を作る製品に成り下がります。男も男で、労働者階級の若者は放射線を浴びたせいで、いつ死んでもおかしくない。
ところが老人によって若者が搾取されている構図は、今の私達の社会にも当てはまります。法律や社会の仕組みを決めるのは老齢の政治家たちです。「半沢直樹」が大ヒットしたのも、日本社会のマイナス面への怒りを持つ人が多かったからだと思います。
ジジイが若い美女たちをヤりたい放題という我慢ならない状況に反旗を翻したのが、本作のヒロインであるフュリオサです。彼女はジョーの腹心の部下でありながら、5人の若妻たちを逃がす手引きをし、大脱走をします。それにしても、シャーリーズ・セロンはかつては押しも押されぬ美人女優で売っていたのに、今作では頭は丸刈り・片手は義手と、女優魂全開!
そして彼女たちの脱走劇にたまたま居合わせたのが主人公のマックスで、ドタバタに巻き込まれながらも次第に彼女たちに協力していく…というのが全体のストーリーです。(というか事実上主人公はマックスじゃなくてフュリオサなんだけど笑)
【根底にあるのは黒澤明流のヒューマニズム】
本作を観て感じたのは黒澤明監督の代表作に通じるヒューマニズムが、その源流にあるということです。ジョージ・ミラー監督は度々黒澤映画の大ファンであることを公言しており、意識してるかは別にして明らかな影響が見られるのです。特に『七人の侍』と『生きる』が物語の軸になっています。
「七人の侍」は、野武士たちが農民から麦を奪おうと襲ってくる。それを撃退するために農民たちが侍を雇うわけです。たった7人の侍が、野武士たちを相手に大立ち回りし、犠牲を出しながら撃退に成功する話です。
つまり、生きるために必要な食料である麦を巡り、略奪する側の野武士と略奪される側の農民を助ける七人の侍が激突する話なわけです。
一方で「怒りのデスロード」も、生きるために必要な水と子孫を残すために必要な女を巡って、略奪者のジョーと人民のために蜂起したフュリオサを助けるマックスの対決になっているのです。
さらに「七人の侍」のラストは大きな犠牲によって農民たちに平和が訪れ、
「勝ったのは俺たちではなく、百姓たちだ」
という印象的なセリフで終わります。
「怒りのデスロード」のラストも本当にそっくりで、旅の過程で何人かの仲間の命が失われるものの、ウェイストランドの民たちは平和を教授するという流れになっています。
それからこれは少し強引ですが「用心棒」を感じさせる展開もあります。「用心棒」は、対立する街のヤクザ勢力のせいで疲弊している街に現れた流れ者の三船敏郎が、2つの勢力を共倒れさせることで、街を救おうとする話でした。対して「怒りのデスロード」でも、ジョーとフュリオサの争いのまっただ中に現れた流れ者マックスが、その混乱に乗じて逃げるのです。(結局、フュリオサ側につきますが)
【ニュークスは『生きる』の志村喬】
冒頭でも書きましたが、私たちが生きる今は便利な時代になりました。「自分の人生は自分で決める」ーごく当たり前のことのように思っている人も多いのではないでしょうか。しかし、満足しているその人生って本当に良いモノですか?
マッドマックスの世界は、物質が何にもない。水さえ常に手に入らない常に死と隣り合わせの地獄です。でも登場人物はマックスの仲間たちも、敵のジョーでさえ生き生きとしていて、エネルギーに満ちあふれている。彼らには自分の人生を選ぶことなんて出来ない。でも映画のカーチェイスのように砂漠みたいな人生を駆け抜けるように生きている。
ニュークスというキャラクターがいます。彼は放射能に被爆しているため、自分に先がないことを知っています。そしてジョーのことを妄信し、彼のために死ぬことも厭わないと考えてきました。ところが旅を通じて、最後にはフュリオサたちのために全てを賭けて闘います。
ニュークスは太く短いけども、あっぱれな一生を全うしたのでした。ここは明らかに志村喬主演の傑作『生きる』に通じるところです。
役所で働く主人公はただ書類に判子を押すだけの日々を送っていました。しかし自分がガンで余命がわずかだと知り、彼は自分がなんのために生きているのか、まだ何ができるのかを探し始めるのです。この映画の白眉は「ハッピーバースデーの歌」を背中に志村が決意に満ちた顔で歩き出していく瞬間です。人生は何度だってやり直せるー真の意味での人生が始まった彼を祝福するかのように、あの歌がいつまでも響いていきます。
【ライフ・イズ・ノット・ビューティフル】
主人公のマックスもヒューマニズムを体現しています。実は彼が闘いの先頭にいないのが大きなポイントです。華麗なドライビングテクニックをみせるのも、敵を蹴散らすのも、どちらかといえば女戦士のフュリオサです。この映画においては彼女こそがヒロイックな存在になっています。
ではマックスは何をしていたのか。彼は「生きる」ことに誰よりも執着することで全体を導いていました。映画前半ではマックスは自分さえ生きられれば、フュリオサや若妻たちがどうなろうと知ったこっちゃないというスタンスを貫いています。
しかし気胸になったフュリオサのために手術をしたりと、徐々に情が移っていきます。そしてついには、「緑の地」が無いことを知り絶望するフュリオサ達に戻ることを説きます。
30年前の前作「サンダードーム」は、「ここではない何処かに希望がありました、めでたしめでたし」で終わってしまいましたが、今回は違います。
そんなおためごかしはしねーぞ、そんなユートピアなんてねーから!
世界はそんな綺麗事ですむもんじゃないんだ
現実に戻れ!現実に戻って闘え!
汚いし情けないし何度も裏切られるけど、でも現実に帰れ!
そう彼女たちをけしかけるのです。これはジョージ・ミラー監督が『サンダードーム』から30年後の今の世界を見て感じた結論だと僕は受け取りました。おそらくマックスはフュリオサにかつての自分の姿を重ねていたのかもしれません。だからこそ彼がここで言うことには感動するし、そこにヒューマニズムを感じるのでしょう。
【おわりに】
と、長々書いてきましたけど、映画最大の魅力は別にこういったメッセージやテーマではなく、ハラハラドキドキのカーアクションです。ただ文章にすると「ここで車がブーンってなって、砂嵐がドーっときて、人がバーって飛んで…」みたいに、ほぼ意味のないモノになるので少し思ったことをまとめて見た次第です。
ちなみに、マックスの幻覚に現れる女の子は、どうやら映画の前日譚のコミックに出てくるらしいです。だから過去作観ないと分からないんだろうなと思った方々、安心して下さい。僕含めておそらく日本人のほとんどがあそこは全然分からなかったと思います笑。
また、「マッドマックス2」で壊れたはずのマックスの愛車インターセプターが、何故か復活していたのもコミックの流れらしいです笑。要するに予習しようがしまいが、コミックを読まないと理解できないところがあるそうです。つーことで、気楽に観るのが一番。ぜひ大迫力の映像体験でトリップして下さい!
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