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『全裸監督』シーズン2(2021年)評論:原作との比較とドラマの「嘘」

※内容は完全にネタバレ有。筆者は平成生まれのため、村西とおるをリアルタイムでは知らず、あくまで原作とドラマ、作り手のインタビュー記事などをもとに文章を書いています。

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【はじめに(長いので飛ばしても可)】

Netflixオリジナルシリーズ『全裸監督』のシーズン2を観終わったあと、なんとも言えない感情に襲われた。「面白かった」でも「面白くなかった」でもない、モヤモヤ感があった。

とはいえ、映像的なストーリテリングはとにかくスマートだ。
例えばヤクザの古谷がトシに拳銃を渡す場面。これはもちろん「お前は鉄砲玉になれ」という意味。親分のためにいつ命を投げ出してもいい捨て駒である。ところが皮肉にもこの行動が、彼の最期へと繋がっていく。

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また奈緒子に淡い恋心を寄せる三田村は、ビデオの企画で彼女に筆下ろしされることになるが未遂に終わってしまう。しかしこれは伏線となり、最終的に三田村は奈緒子に童貞を捧げることになる。

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他にも、シーズン1でポセイドンの池澤社長に反抗を挑んでいた村西が、シーズン2では池澤のように権威側の人間になってしまったり、裏ビデオを横流ししていたトシと同じ罪を犯して仲間を失ってしまったりと、随所に「対の構造」が散りばめられ、全体としてそれが「因果応報」とでもいうべき世界観を形成している。

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実際に、総監督の武正晴さんのインタビュー記事を読むと、ストーリーや画作りで「コントラスト」をテーマに掲げていたと証言し、好きな映画として『ゴッドファーザー』の名前を挙げている。

『ゴッドファーザー』もPart1はマイケルが隆盛を極めるまでの物語だが、Part2では彼の転落を容赦なく描いた。さらにPart2は現在のマイケルと、マイケルの父のヴィトが若くしてマフィアの頂点に登り詰めるまでを交互に見せる構造。つまり1本の映画の中にも明と暗のコントラストがあり、シリーズ2作を比較してもマイケルの人生のコントラストがある。

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もう一つ、『全裸監督』と『ゴッドファーザー』の共通点があるとすれば、「時代そのもの」が1つのテーマになっているというところだ。武監督は同記事内で、シーズン1が80年代、シーズン2が90年代の日本を振り返る作りになっていると指摘する。そのうえで、こんなことを言っている。

僕自身、50歳を過ぎて「80年代・90年代を面白く生きたけど、本当にクソみたいな時代だったな」と思うようになって。今の若い人たちに申し訳ない気持ちになってきたんです。だからこそ、そういった時代を振り返る作品を作ってみたいなと思ってー

言葉通り、シーズン2はバブルで好き勝してきた人達を辛辣に描いている。彼らのツケをいまの日本の若者が払わされていることを匂わせるのだ。

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『ゴッドファーザー』シリーズも、端的にいえば「時代がマフィアを殺す」話である。マフィアがいなくなることで社会が健全化したかというと、そうではない。名のある大企業が公然とヤクザに成り代わっただけのことだ。マフィアにしてもヤクザにしても悪であることに変わりはない。しかし彼らは、彼ら以上の巨大な悪によってスケープゴートにされ、時代の犠牲者になってしまった。『全裸監督』で、汚職刑事の武井(リリー・フランキー)がそうなってしまうように。

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『全裸監督』の話に戻ると、随所にわたってキメの細かい映像設計がなされており、特に何より役者陣の演技が本当に素晴らしい。特に冨手麻妙が演じた奈緒子は本当に魅力的だった。喜怒哀楽に富んだもっとも人間くさいキャラクターだったのではないか。AV女優という感情移入しづらい人物を呑み込ませる説得力と、三田村と結ばれた際の笑顔のキュートさを、本作の最も良かった点の一つに数えたい。

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【何が消化不良だったのか】


しかしそれでも、2シーズン計16話を完走して残ったのは消化不良感だった。その理由がなんなのか突き止めるべく、すぐに書店で原作ノンフィクション『全裸監督 村西とおる伝』を買って読んだ。


結論から言えば、知りたかった答えはすべて原作の中にあった。当たり前だが、ドラマは原作を大幅に脚色している。その過程でどんな要素を落とし、あるいは残し、肉付けし直したのかを照らし合わせることで、作り手の狙いが浮かび上がる。文庫本868ページ(!)を読了した上で、僕が感じたモヤモヤが次の5点に整理された。以下、それを紐解いていきたい。

① オリジン(誕生譚)の嘘
② 女優の人権蹂躙問題
③黒木香
④トシ
⑤終わり方

【①オリジン(誕生譚)の嘘】

おそらく原作本の『全裸監督』を映像化する上で、Netflixが最も苦労した点は「村西とおる」をどのように描くかだったと思う。言わずもがな人間的に問題のある人物で、全てを明かしてしまうと激烈な拒否反応を示す人も少なくない。だから「都合の悪い事実」はバッサリと排除し、キャッチーでポップな部分がより魅力的に映えるようにアレンジすることにした。

物語冒頭、村西はうだつのあがらないセールスマンだ。営業成績は悪く、妻ともセックスレス。仕事の休憩時間にトイレで洋物のエロ本で自慰するようなダメ男。そんな彼を変えるのが、上野(板尾創路)という先輩。彼のセールストークの技術を盗むことによって、一躍営業成績トップを達成する。

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しかし原作を読むと、村西はまったく落ちこぼれではない。英語辞典のセールスマンの前に、ホストのような仕事をしており、すでにここでコミュニケーション能力を磨いていたことがわかる。確かに上野という先輩がおり、彼にお世話になってはいたが、「応酬話法」と評されるあのトークスキルは独学で身につけたものというのが真実だ。
どうしてこのような改編がなされたのか。答えは、マーティン・スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』がやりたかったからではないか。

【日本流ピカレスクロマンという目標設定】

 ジョーダン・ベルフォードという実際の投資家の破茶滅茶な半生をレオナルド・ディカプリオが演じた本作で、証券会社に入社した主人公に金儲けのイロハを叩き込むのが、マシュー・マコノヒー演じる上司だ。モラルの欠片もない彼は、「いかに客を騙して金儲けするか」をとうとうと語る。その影響をモロに受けたジョーダンは、悪の道に突き進んでいく…

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 全裸監督は完全にこのプロットをトレースしている。それだけではない。シーズン2の最終話「石の意思」で、タイトルにもなっている場面。川田が「この石を僕に売ってみてください」と村西を試すのだが、ここも『ウルフ・オブ~』の映画最後にまったく同じようなシーンがあるので、詳しくは観ていただければと思う。『全裸監督』は『ウルフ・オブ~』で始まり、『ウルフ・オブ~』に終わるといっても過言ではない。それくらい多大な影響を受けているのである。

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 『ウルフ・オブ~』のような映画は、俗にピカレスク・ロマンと呼ばれる。家柄に恵まれなかったり、社会のアウトサイダーとされる主人公が、汚い手を使いながら成功の階段をかけ上がるが、最後には転落する話である。『全裸監督』は、まさに日本映画でハリウッド的なピカレスク・ロマンを作るという目的意識から出発している。だから、村西とおるはダーティーでモラルのない人間でありながら、きちんと観客を感情移入させられるダークヒーローでなければならないのだ。

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【最も隠したい事実:初体験の相手は○○歳】

オリジンでもう1つ重要なのは、トシによってエロの世界に導かれるという改編。村西は最初の妻に浮気され、「あんたでイったこと1回もないから」と完全に男として否定されてしまう。失意の中で出会ったトシにラブホテルの盗聴をすすめられることで、新たな世界の扉が開いていく。

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つまりドラマでは、村西がこの時点まで性に対して淡白、もしくは人並みくらいの好奇心しか持っていなかったように描いているのだが、事実は真逆。そして原作のこの部分をこそ、Netflix側は一番隠したかったのではないか。ドラマではほとんど描かれない、村西の幼少期のエピソード。文庫本37ページに衝撃的な記述がある。


中学一年の夏休みが終わるころ、童貞喪失の機会がやってきた。相手は同級生の妹で小学六年生だった。

 これは1969年の福島での出来事だ。時代も状況も今とは何もかもが違う。しかし、この初体験の顛末はかなり詳細に書かれており、とてもここに書ける内容ではない。他にも、少年期のヤバいエピソードはあるし、前述したホスト時代の性豪っぷりも赤裸々につづられている。現実の村西とおるの狂気性のルーツといえる。

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 しかしもし第1話で、こうしたエピソードが語られていたらどうだろうか。現代の価値観において、12歳の女の子を無理矢理押し倒す主人公が、果たしてダークヒーローたり得るだろうか。エクストリームな情報を省略するのは当然の判断だった。
 他にも、村西は撮影中にイライラすると部下たちを理不尽に殴ったり蹴ったりしていたし、愛人にしていた専属女優は黒木香だけでなく、他にも何人もいたという。(黒木香自身もDV被害を受けたと後に証言)
しかし繰り返すが、彼が狂人になり過ぎてしまうと視聴者はどう見ていいか分からなくなってしまう。『ジョーカー』も狂人の話だったが、彼に感情移入出来るように計算されていた。それと同じである。

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【説明されない村西の作家性】

ところが、こうしたオリジン改編は、以降物語の随所に矛盾を作っていく。
例えば、村西は自己の性欲を抑制できる存在として描かれている。エロを利用して、男たちから金を巻き上げるー彼にとってセックスはあくまでビジネスであり、だからこそ自分の性欲よりも商売を優先させられるのだ。
だが、そんな人間に「抜ける」AVが作れるのだろうか。興奮できるモノを作るためには、作り手本人が変態でなければならないのではないか。それこそ川田のように。
ドラマでは村西がAV監督としてどんな作家性を持ち、どこに男優・監督としての長所があり、セックスというものにどんな哲学や矜持を持っているのかが不明瞭になっている。

 もちろん原作には、その辺りのことにしっかりと答えている。「エロとは落差」と持論を展開するし、原体験こそがエロを作るという話や、AVとアメリカンポルノの違いの説明は、実に説得力のあるものだ。
特にいわゆる「ろくでなし子裁判」に関する意見を求められ、2014年に朝日新聞に掲載されたインタビューが引用されるが、非常に理路整然とした主張をしており、ここに彼の哲学は凝縮されていると言えるだろう。


 ではなぜ、物語の中でこうした要素が語られなかったのか。それこそが、次のモヤモヤポイントとなる「女優の人権問題」へと繋がっていく

【②女優の人権蹂躙問題】

 シーズン1放送後の2019年9月に、文春オンラインに掲載されたurbanseaさんの記事が非常に興味深い。

「ドラマ化で失われたもの、立ち表れたもの」というタイトルで、次のように指摘している。

その昔のAVをめぐる問題というのは、ボカシが濃い/薄い、本番/疑似本番といったものだ。その境界線を越えると世間は熱狂するいっぽうで、警察はそれを「わいせつ」と見なしては取り締まる、すなわち表現の問題であった。今となっては牧歌的な話である。ところが今日における論点は、出演強要が「女性に対する暴力」にあたるとして政府が乗り出すなど、人権の問題となっている。

 こうした今の時代にドラマ「全裸監督」である。ひとによってはここに警察と対峙しながらもエロに生きる男たちのピカレスクの物語を見るが、ひとによってはそこに人権問題の不在を見るのであった。

そこではAV業界の光と影の、影が描かれていないわけではない。とはいえ、裏流出や警察の買収などを他の人物に背負わせることで「村西とおる」を主人公として守ったかのようである。



これには100%同意する。オリジン改編によって、村西がAV監督としてどんな特徴を持っているかが十分に描かれていないということは前述したが、その理由はまさにここにも関わってくる。
「駅弁」「ハメ撮り」「顔面シャワー」といったエポックメイキングな発明をしてきた以上に、代名詞となるのが「応酬話法」と呼ばれる独特のトーク術だ。しかし原作本において、このトーク術は作品のクオリティをあげるためというよりは、現場で踏ん切りがつかない女優を撮影に持っていくために発揮されたと書かれている。

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相手が反論する隙も与えずに、次から次へと言葉を繰り出す応酬話法は、いわば洗脳のようなものなのだ。全く役に立たない高価な英語辞典を庶民に売りつけるように、村西は応酬話法によって乗り気ではない女性たちを何人もアダルトビデオに出演させた。
つまり昨今「出演強要」をめぐるAVの闇が取り沙汰される中、現実の村西は加害者として積極的に関わっていたことになる。そして、その部分は当然描くわけにはいかない。だから応酬話法が繰り出される場面は、「SMぽいの好き」の撮影場面ぐらいになってしまった。さらにそれに付随し、黒木香の描き方というものにも疑問が残ってしまう。

【③黒木香】


転落事故をきっかけに、業界を引退した黒木香は2004年に引退後も消息記事が書かれたり、作品などが再販されている状況に対し、出版社を相手に民事訴訟を起こしている。そんな、過去のことを掘り返して欲しくないと感じている人を、断りもなく実名でドラマ化するってどうなの?
こうした疑問に対し、原作者の本橋さんはウェブ記事上で弁明をしている。これを納得できるか、言い訳と取るかはあなた次第だ。

ただし間違いなく言えることは、現実の黒木香に取材をせず、当時の証言を集められなかったことが、ドラマのクオリティにも影響していることだ。
正直、シーズン2の黒木香はキャラクターとしての推進力に欠ける。彼女が何を考えていたのか、作り手自身が分かっていないためか、十分に描かれない。さらに乃木真理子ともあまりスイングしておらず、2人のヒロインがどっちつかずのまま最後までいってしまった印象だ。

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ドラマでは乃木は黒木のワナビーとして業界に入り、次第に村西に惹かれていくというアレンジがなされている。しかし、原作を読んで受ける印象は全く異なる。もっと擦れていて計算高く、それでいてツンデレな感じとでもいうべきか。黒木の撮影の穴を埋めて乃木がデビューしたのも、そのせいで乃木が周りから妬まれていたのも創作であり、やはり「嘘」の部分はどうしても「事実」と比べると強度に欠けてしまうのだ。

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【④トシ】

一方で、嘘の部分が意外とうまくいっているところもある。それがトシと古谷の闘いだ。トシはモデルとなる人物こそいるが、そのエピソードはほぼ全てが創作だと言っていいだろう。
(シーズン2最終話で、村西をダムまで連れていき飛び降りるよう命じた話は本当だが、それは村西に多額の融資をした債権者のエピソードである)

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urbanseaさんが指摘している通り、トシも古谷も村西をダークヒーローにするための、物語的なスケープゴートだ。だから見方によっては、2人は村西の分身であり、トシが天使で古谷が悪魔を象徴していると解釈することも出来る。ただしトシは己の行いを反省し、自分を犠牲にしてサヤカを解放するのに対し、村西は特に反省らしいことはしない。(まあ、その方がむしろ人間臭くてリアルではあるが)

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そしてトシが死んだことすら知らない村西に怒る川田だが、最終的には村西に対して「トシのためにも村西さんらしくいてください」とお願いする。
正直、だいぶ甘やかすなとは思った。
言いたいことはもちろん分かるんだけど、最後までトシは村西のお膳立てのためだけのキャラクターになっている。とはいえ満島真之介の熱演で、最終的に最も感情移入できるキャラクターになっていたのはトシだった。良く言えばトシというキャラクターがシーズン2を引っ張り、悪く言えばトシによって村西は少し食われてしまった印象である。

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【⑤終わり方】

最終話の大詰めで、村西がバラエティ番組で道化を演じる場面がある。借金返済のために、どんな泥仕事でもこなしているのだが、ここで僕の記憶がハッキリと蘇った。「神さま〜ず」というTBSの深夜バラエティで、当時僕はこれをリアルタイムで観ていた。

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有吉さんのブレイク前夜くらいの時代だったと思う。ドラマでは90年代の設定になっていたが、原作によると2008年の放送らしい。
これをモニターした後に、村西は渋谷の街でゲリラ撮影を敢行。警察に取り押さえられる中で、原作の帯にもなっている「死にたくなったら下を見ろ、俺がいる」という言葉をカメラ目線で叫ぶのだった。

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しかし実際はこれも事実ではない。これではまるで、村西が50億の負債を自分の身一つで返済していったように受け取ってしまう人もいるのではないだろうか。実際は、すでに体力的な限界で男優として出演することはほとんどなくなっていた。

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では村西はどのように借金を完済したのか。原作本には、チャイナマネーがかなり追い風になったと記されている。AV女優たちをアイドルのように集めてイベントを開くことで、莫大な収益を上げることができたのだ。
しかし、それでは最後の台詞「死にたくなったら下を見ろ、俺がいる」に全く説得力がなくなってしまう。だからこそ、時代設定を変えてまで「神さま〜ず」のあのシーンを入れたのだろう。


そしてエンドロールで流れる曲はボブ・ディランのライク・ア・ローリング・ストーン。


金持ちの女が転げ落ちるように貧しくなっていく様を見て「どんな気分だい?」と語りかけるような歌詞で、浮き沈みの激しい人生を送ってきた村西を象徴するような選曲だ。
そしてもう一つ、この曲をきっかけにディランはエレキを導入し、ロック路線に作風を切り替えていく。ディランにとっても、音楽の歴史にとっても転換点となる、「歴史の変わり目」の象徴でもある。

色々と言ってきたが、最初に引用した武監督のメッセージは伝わる。とにかく「生きろ」ということだ。「今の若い人たちに申し訳ない」からこそ、「俺たちの時代はなあ」と武勇伝を押し付けるのではない。メチャクチャな時代をメチャクチャな時代として描き、それでも村西とおるの「人たらし力」をもって、すべてを肯定したかったのではないだろうか。

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