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おれは無関心なあなたを傷つけたい

2021.8.15 読了 村本大輔 著

水槽の中で今れたメダカは、水槽の中が自分の世界の全てになる。
しかし、もし一度でも川に住んだなら、自分のいる世界がいかにおかしいかがわかる。

▼日本に住む「在日」外国人への目

この日本には、個人で見ずに「朝鮮」という言葉だけで子どもにも汚く幼稚な言葉を浴びせる人たちがいるみたいで、街頭で呼びかけをしている彼らの元に街宣車で現れ、汚い言葉で暴言を投げかける。
彼らは負けずに街ゆく人たちに声をかけ、ビラを配り、一生懸命、朝鮮学校の無償化を訴えている。

ルーツがあることは素晴らしいことだ。ルーツに迷い、困惑し自分が何者かを悩むことは素晴らしいことだ。
アメリカのコメディアンは自分のルーツを学び、発言する。黒人白人メキシコ人など、なぜここにいるのか、自分は何者かと。
なぜここに講演に来たのか。
「僕は味方だよ」と言いたかった

打ちのめされることや、無力で涙を流すこと、全て未来への大事な経験にして幸せを勝ち取ってほしい。怒りに取り憑かれて恋することや友達との時間を忘れないで欲しい。
いろんな景色を見てきた人たちは格段に強く優しくなれる。それを伝えたかった。

彼らをルーツだけで批判する人たちに言いたい。
あなたは、彼らのようなあなたの笑顔を見たい一心で必死に行動し、あなたの笑顔を守るために走り回り、あなたの笑顔を自分の幸せのように写真を撮ってくれる人はいますか?と。


▼共感

僕は泣いてる人がいたら、それが友達だったらそこに行き、その人の泣いている景色を見に行く
なぜ泣いているのか、怒っているのかを聞きに行く。

共感だ。当たり前を疑えない人が増えてきている。電気は使えているのが当たり前。無自覚に電気は共有するが、原発がある街の痛みは共有しない。
豊かで贅沢で何も感じなくなっちゃったのか。
牛を食べて生きているなら、牛を屠殺した時に、シンクロして人間にも傷つけばいいけど、それは不可能だから神様は心を作った。
少しでも痛めるように、痛みからありがとうごめんなさいを言えるように、
傷まなくなった人は、人ではない。
豊かさの上にあぐらをかいている悪魔だ。
光を知るために闇を知らないといけない。あなたが豊かさを感じるために困っている人を知るべきだ。あなたの自由は、誰かの不自由の元に成り立っている。

2019年の台風19号の夜、台東区の避難所からホームレスが追い出された。
彼らが追い出されたことによって安心した人たちは、追い出されたホームレスは犠牲なんだから、その犠牲を目をかっぽじって見るべきだ。
あの日、台東区から追い出されたホームレスは3人。一人は、脳梗塞で働けなくなってホームレスになったおじさんだ。
彼はあの夜、傘一本で朝まで凌いだ。彼は誰のことも責めない。
知らなかっただろ?
知ろうとしないだけだ。

▼いつだってそっちを見てるよという姿勢

影響力のある芸人がスルーしていることにかねてから腹が立っていた。
こども向けの「おはスタ」みたいな番組に出て、子ども向けのお笑いをやる。この国には疲弊している大人がいるのに

被災地を回っていつも思うのが、熊本も、福島も、次第に人がこなくなるということだ。
でも、まだ終わっていない。終わらない。傷は癒えない。だから思い続ける姿勢を持ち続けないと。僕たちはやることがあるけど、いつだってそっちを見てるよ、という姿勢だ。
見られていないと思うと、そこは透明人間になってしまう。

トラウマだった「聞くこと」「知ること」の楽しさを知った。何回手を上げても笑われないし、どれだけ掘り下げて聞いても答えてくれ、時には、わからないから一緒に考えようと言ってくれた。
同期のキングコング西野も、子どもに絵の書き方を聞かれて「一緒に考えよう」と言ったという話を聞いたことがある。
僕はその言葉が好きだ。

歴史上のどんな悲惨な出来事も、時間が経てば語呂合わせで覚える。テストで正解するために。
たしかにそうだ。そこには多くの痛みがあったはずだあ。でも、僕らの想像は過去へは及ばない。
しかし、今でも磔にかけられている人たちはたくさんいる。
コロナ禍のステイホームで経営がうまくいかなくなり亡くなった人は何百年前の人ではない。
コロナ禍でバイトを辞めることになって大学の学費が払えない人も。
声なき声ではない。聞こえているのに聞こえないふりをしているのはおれたちだ。
それらはただの情報だ、と理由をつけ、しょうがない痛みだと切り捨ててしまう社会に、日々変化しているような気がする。

あなたは誰かの本を読み、その物語を自分の物語のように、自分の頭の本棚に入れて、知った気になっているだけだ、それはとてももったいないと思う。
僕のこの本屋、誰かの本を読んだとしても、それは、村本にはその誰かにはそう見えた、だけでしかない。
どこでもいい、現場にいくと心がぐちゃぐちゃになる。

▼「そう感じた」の被害者

日本と韓国の喧嘩を見ていて思うのが、日本のコメンテーターや大人達はいつも日本政府の発表、日本のメディアから流れてきたニュースばかりを信じることだ。
最近、仲良くなった女の子がこんなことを話してた。
「私はお母さんと仲良しで、お父さんとはあまり口を聞かない。いつもお母さんからお父さんの嫌なとこばかり聞くから、お父さんが少し嫌いになってきている。でもよく考えたらお父さんからはその話を聞いていない」
日本人は、北朝鮮や韓国のことを日本のニュースでしか聞いていない。今日本人が韓国に行けば危険だよとは言われるけど、そういえば自分では確認していない。
「らしいよ」は聞くけど、それはその女友達でいうところの、お母さんからの話だ。

子供の時から、自分が強く信じているものを疑われると不安になり、それが恐怖となって、怒りに変わる人たちが一定数いる。

僕が韓国に行って思ったことは、「そう感じた」ということだ。韓国の人は日本人のことを好きだと感じたし、嫌いだとも感じた。歴史のせいだとも感じた。僕はそう感じた。それだけでしかない話。
喧嘩をしている二人も「そう感じていた」だけだった。
日本と韓国で「危ないらしいよ」の空気を作るやつ。彼らは「らしいよ」を振り撒き、「らしいよ」を感染させる。

人間はそのポジションで話をする。
大人というポジション、学校の先生というポジション、姉として家族の中で一番強くないと行けないポジション。そんな話には何の面白みもない。

ドキュメンタリーで「不都合な寄付の真実」という映画をみた。
アメリカの靴会社が、その靴を一足買えば、アフリカに靴が一足
寄付されるという企画をおったドキュメンタリー。その靴を送る先がどうなるかという内容。
アメリカ人はいいことをしていると思い、靴を買う。
そして向こうに靴がたくさん送られる。向こうの人はタダで靴が手に入る。
でも、向こうにある靴屋が潰れていく。

▼つくり悲しみ顔
時間が経てば経つほど、関わり方は変わっていく。必要なことは「僕らは僕らなりに関わること」
被災者イコールこうだ、原爆ドームの前で撮る写真はこうだ、に当て嵌めようとする奴がいる。

笑う時は笑う、険しい時は険しい。
原爆ドームの前では険しい顔をし、ビールを隠し、見ている人に「そうだよねーそうだよねー悲しいよねー」と共感させるごっこに巻き込まれたくない。

エンターテイメントを観に行って、こんなに車椅子の障害者が入り混じったライブは初めてだった。
途中で手を叩き出す人、大きな声を出す人、最初はその光景になれずの戸惑っていたが、途中で僕は思った。
これが社会なんだと。
社会にはみんないる。。彼らをいないようにしていないか?
今東京などで、映画館やお笑いの劇場にいくと、こんなに障害を持っている人を見ることがない。
車椅子の人はいるけれど途中で大きな声をあげる人はいない・もしかしたら、その人達の介護者や親、友達に対して、そういうところに「来にくい」思いをさせてるんじゃないか。
彼らがずっとどこかにいた。主催者が浩子さんだったから、このフェスには来やすかった。みんな楽しみたいのに楽しい場所にはいない。
周りに目とは何だろう。世間の目とは何だろう。

▼ふしんちゅう

「日光東照宮の柱は1つを逆さにしていて、それは完成すると崩壊が始まるというメッセージ」
「9割は自分が正しい、1割は間違えている」
これが正しい答えだと決めると、崩壊が始まる。

未完のまま、完成に向かって突き詰めていくが、完成はさせないんだと言っていた。
答えは持たない、答えなんてない。答えを持った時に人は年寄りになり、若い頃はなー、お前らはなーと言う。
迷うことを、考え続けることを、誰かの問いに答えることを、もっと時間をかけて、大事にしたい。

▼知との縁

この国に足りないもの、それは自分の意見の主張だ。
「無知は恥ではない。たまたま縁がなかっただけ」
無知は縁がなかっただけ。それだけでしかない。「恥ずかしい」なんて思わなくていい。間違えは、知るきっかけを作ってくれる。
恥ずかしいと思ってしまうと何も発せなくなってしまう。「こんなことも知らないのか」とバカにされるから話すのをやめよう。その話題は避けようとなってしまう。
発信しないことは沈黙すること。沈黙は民主主義の木を枯らすことになり、発信はそれだけで民主主義に水をやり続けることになる。

2020年のミス宮城の女性は、次はミスジャパンを目指しているらしい。
ゆくゆくはミスワールドになって、丸森町のことを発信したいと言っていた。
なんでなりたいの?と聞いたら、彼女は影響力が欲しいと言った。
豪雨の被害になった時、自分が何者でもないことを痛感した。やりたいことに時間がかかりすぎるということ。

心が疲弊すると、他人に対して余裕がなくなる。
妬み嫉みから、本来は一番支え合わないと行けない人たちが一番信用できなくなる。

▼タブー視されることの辛さ

タブーをタブーにして笑いをやることによって、それを観ている人たちもそれでいいんだと、それをタブーとして会話するようになる
テレビの中の人たちとそれを観ている人たちが、それに触れないことを互いに許し合うせいで、彼らはそこにいないものになる。

▼“みんな”とは誰だろう。

ある友達が、小学生の時にランドセルを買ってもらえず、みんなに貧乏貧乏といじめられた。
それをお母さんに言ったら「みんながみんなだと思うな」といわれた。
別の友達は、カレー屋のチラシに「みんな大好きカレーライス」と書いてあった。その時に、彼女は「ふざけんなよ。私はカレーライス嫌いだわ!」と思ったと。
その中に彼女はいない。
僕は思う、臭いものには蓋をするというけど、それは臭くないんだ。臭いと思っているのは普段からあなたがその匂いを避けているから。鼻が慣れていないだけだ。
怖がるな、くさがるな、誰かは悲しがっているぞ。臭いものにされることを、タブーにされることを。

自分を隠すために迷彩服を着る大人たち。
それって本当に幸せか?
普通ってなに?

誰かが“普通のあなた”を“普通じゃない”に変えようとする

違いに対して「面白いねー」とリスペクトを込めていわれると「え、この迷彩服脱いでもいいのかな」と思わされる。

「カミングアウトは、カミングアウトという言葉を使わせる空気が悪い。カミングアウトってなんだ?自分がゲイだと、レズだと、在日だと当たり前に言える社会こそが健全なわけなのに」

▼「知らないことを言えない」大人

「知らない」「知らないから教えてくれ」「それはなんでそうなるんだ」と言えることの強さ。
彼らはどこまで「知らない」と言えないのか。

無関心な人たちは孤独だ。それは、あなた自身が作ったこの無関心な世界によって、あなた自身も誰かに空気扱いされているからだ。
だから孤独を感じ、誰かの死すらも「いいね」をもらうために利用する。知らない人たちは風景だから。死のうが生きようが風景だから。

お前が誰かを風景にするということは、お前も誰かに風景にされるということだ。風景にしていいということは、自分の悲劇も風景にされるということになる。
風景にするということは風景にされるということ。お前があいつに無関心だということは、あいつもお前に無関心だということ。だから日本は先進国の中で若者の自殺率が一位なのかもしれない。
地雷を踏んだこともない人たちが、この国では命を落としている。自らの手で。
寂しいんだろう。繋がりがないから、無関心だから、自分が風景にされているから。寂しいんだろうな。

ヨーロッパやアメリカでは、政治的は発言をしない芸人やミュージシャンがネタにされて笑われる。
なぜなら民主主義の国だから。ちゃんと見て、おかしなことはおかしいというのが、民主主義の義務だ。
選ぶ権利は監視する義務でもある。しかし、この国では、発言する側がネタになる。笑われる。嫌われる。するとそれに恐れて誰も発言しなくなり、痛みを和らげることがいなくなる。痛みを抱える人たちはずっと痛みに耐え続けることになる。
今、彼らは沈黙し、テーマパークのキャラクターのように、自分たちのことが好きな、痛みに無関心なファンの方を向いて、汗をかきながら全力で踊り、もてなしている。

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