「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」というお話(1)
廣瀬さんが半世紀かけて構築された自転車の製作手順や技法等を具体的にご紹介させて頂く前に、まずは、廣瀬さんの自転車哲学、思想を、何回かに渡ってご紹介して行きたいと思います。
哲学、思想と言っても難しい話ではありません。廣瀬さんが世にある自転車をどのように認識していたか。そして、そこに向け、どういう自転車を作ろうとされて来たか、ということです。
そもそも、なぜ廣瀬さんはビルダーになり、亡くなられる間際まで自転車を作り続けたのか。すごく単純化すれば、ご自身が作られる自転車も含め、世にある自転車に、未だ満足されていなかったからなのだと思います。
何が不満だったのか。どこをどう改善していったのか。それらを具体的にご紹介させて頂くことで、廣瀬さんの自転車哲学、思想の一端をお伝え出来れば。そう考えました。
まずは「オーダーメイドや高額車だからよく走る自転車とは限らないんだよ。」というお話から。
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高名なフランス製旅行車や、イタリア製ロードレーサー等、何台もの高額オーダーメイド自転車(注1)を所有していたMさん。ひやかしに訪れた廣瀬さんの店で、たまたま遊びに来ていた人の廣瀬車に乗ったところ、それがあまりに良く走ることに吃驚。所有していた自転車を全て売り、以来、廣瀬さんにオーダーした自転車ばかり乗るようになりました。
Mさん以外にも、高額なオーダー車が、安いマスプロ車(大量生産された製品)より良く走らないと証言されるお客さまは、何人もいらっしゃったそうです。「高名な店で作る高額なオーダー車だから良く走るなんていうのは、まったくもって幻想だよね。」廣瀬さんは仰っていました。
それにしてもオーダーメイドの自転車というのは、細かく注文出来れば出来るほど、注文する側にとってハードルが高い商品です。その人のためだけのサイズ、ジオメトリ(注2)。採用されるパーツに特化した様々な注文工作。バッグの形状や荷物の重さに合わせて作られる専用キャリア...。注文主の要望に寄り添えば寄り添うほど、出来上がってくるまでその商品の実際がわからない。
およその外観や色なんかは、ある程度想像出来るかもしれません。しかし、仕上がってくる自転車が、はたして思い通りに走るのか? その「乗り味」や「使い勝手」まではわからない。
頼む側は、最初は誰もがオーダーの素人です。高名なビルダーの前では、つい気後れしてしまいがち。一か八か、賭けのような気持ちに追い込まれることもあるかもしれません。
たとえ出来上がってきたオーダー車が、それまで乗っていた安いマスプロ車に比べて良く走らなかったとしても「自分の頼み方が悪かったのかも」「私のライディングスキルが足りないのかも」等と自らを疑ってしまう。
既に高いお金を払ってしまっているから、たとえ「心」では良く走ら無いと感じていても、これはこれで良い自転車なのだと「頭」で思い込み、我慢して乗る...。
「でも、そんなのおかしいよね。間違っていると思う。」廣瀬さんはきっぱりと言います。「高額なオーダーメイド車こそ、ちゃんと走らないとダメだと思う。」と。
実は廣瀬さん自身も、若い頃、胸を膨らませてオーダーした自転車がちっとも良く走らなかったり、オーダーメイドなのにビルダーに要望できる箇所があまりに少ない等、数々の苦い経験をされて来ました。創業前、サイクルセンターで働いている時分は、自転車の組み立て、整備、修理を通して、数々の「走らない自転車」の実像を目の当たりにしてきました。だからこそ自分はそうじゃない自転車。良く走る自転車を売ろう、作ろうと決意されるに至った訳です。
冒頭紹介したMさんのフランス製旅行車、イタリア製レーサーは、なぜ良く走らなかったのでしょう? 以下、廣瀬さんの推理をご紹介します。
Mさんのフランス製旅行車の場合
良く走らない自転車。その理由の一つに、その自転車の芯が狂っている場合がある。そう廣瀬さんは言います。
自転車の芯というのは簡単なようで難しい定義、概念です。この回では、「その自転車の前後輪が同一平面上にある」ことを「芯が出ている」状態と定義して話を進めさせて頂きます。
手書きの汚い図で恐縮ですが、左側が自転車を真上(真下)から見た図。右側が同じ自転車を真正面(真後ろ)から見た図です。
一番上のAが前後輪が同一平面上にある状態。つまり「芯が出ている」状態です。BとCは芯が狂っている例。特にCのような状態がよろしく無いそうです。
まっすぐに走ろうとしても、常にハンドルを微調整しなくてはならなかったり、左右の曲がる感覚が異なってしまっていたり、走行抵抗があったり、パーツが偏った消耗の仕方をしたり壊れたり。
たとえその自転車のどの箇所がどう狂っているかはわから無くても、芯の狂った自転車に長時間乗ると「なんか良く走ら無い自転車だな。」「楽しく無い自転車だな。」「やたら疲れる自転車だな。」等と感じるそうです。
自転車のフレームを製作するビルダーさんの多くは、定盤の上でそのフレームの芯が出ているか否かをチェックし、狂っていれば修正します。この作業工程を「芯出し」と呼んでいます。
廣瀬さんは、後ろ三角(注3)の本付け(注4)の後に、この「芯出し」の必要がなるべく無いよう製作工程を設計し、ロウ付け(注5)の技法を考え、実践されていました。
その為にも、前三角の仮付けの後、前三角の本付けの後、後ろ三角の仮付けの後、と何回も「芯出し」作業をされていました。
なぜ何回もチェックするのか。それは「火を入れれば(ロウ付けをすれば)必ず鉄は曲がり、歪む」からです。物理の話ですから、玄人素人、上手い下手は関係ありません。
ちなみに廣瀬さん「これほど何回も工程ごとに『芯出し』するビルダーは少ないと思うよ。」とおっしゃっていました。そして「火を入れれば必ず曲がるんだから、曲がらないように作れば良いんだよね。」とも。
廣瀬さんがどのような「曲がり対策」をされていたか。これは製法、技法の話になるので、別の機会にさせて頂きます。
火を入れるとどれくらい鉄は曲がるのでしょう? ボトル台座を例に話を進めます。小さなボトル台座2つを、技法的に何の工夫もせず、ダウンチューブに使われるカイセイ022のクロモリパイプにロウ付けしてみます。
火を入れると、最初はボトル台座をつけた面(上の写真で上を向いている面)が伸び、冷えると収縮します。収縮する力の方が強いので、シートチューブは「U」の形になり、そのままかたまります。「U」の一番凹んだ所の上側が台座を取り付けた位置。ゲージなど使わなくても、見た目ではっきり湾曲しているのがわかるほど曲がります。
火を入れると必ず鉄は曲がる。歪む。ほんの小さな台座2つ付けただけでも、太くて丈夫なダウンチューブが曲がってしまう。つまりは「ロウ付け箇所が多ければ多いほど、『芯が出ている』自転車を作るのは技術的に難しい」と言えるわけです。
ボトル台座はパイプの中心、上の絵の赤線の真上にロウ付けしますから、たとえパイプが曲がってしまったとしても自転車全体の芯への影響はほとんど無いかもしれません(自転車を真横から見たら、フレームが曲がっているのがわかるかもしれませんが、真上、真正面から見ればフレームは真っ直ぐで、車輪は同一平面上にある)。しかし、フレームの左右非対称の位置にロウ付けするアウターガイド(注6)工作などの場合、上手くやらないと芯が狂ってしまいます。
イタリアでは、一時期まで、ありとあらる台座をバンドで止めていました。
「フレームが歪まないよう、ロウ付けする箇所をなるべく少なくするという狙いがあったのかもしれないね。」そう廣瀬さんは仰っていました。と同時に、イタリアには小さな火力をコントロール可能なトーチが無かったり、そうした技法の伝達や普及が遅れていた可能性にも言及されていました。
ランドナー(注7)等の旅行車は、ロードレーサーに比べ、工作箇所が格段に多い。バンドでは無く、ロウ付けで台座や小物を設置する場合、どうしても火を入れる箇所が多くなってしまいます。
下の写真は廣瀬ランドナーの注文書です。オレンジで印をつけた箇所がロウ付け加工をする部分。実際に火で炙る箇所になります。
ブリッジ工作、ケーブルガイド、変速レバー台座、ボトル台座、チェーンフックといったレーサーでも行われる工作の他に、ブレーキ台座、前後の変速機用台座、追加の変速ワイヤーガイド数カ所、後変速機用のバネ休め、泥除け用ダボ、ダイナモ用の各種工作、チェーンガード用工作など、ロードレーサーに比べ、20近くロウ付け箇所が増えます。
小物や台座をロウ付けする手法での自転車作りは歪みとの戦いです。フランス製旅行車に良く走らない車体がある理由の一つは、火を入れる箇所が多いせいかもしれない。そう廣瀬さんは推理されていました。
また、フランスの個人経営の工房には旋盤やフライス盤が無いところも多かったそうです。凝ったラグデザインだったり、美しいキャリアやオリジナルの手製パーツが奢られてはいても、フレーム用パイプの切削加工等、工作精度は低かった。機械による切削加工で大量生産される、プジョー等の大衆車の方が、フレームの精度が高い程だったとか。なるほど、フランス製オーダー旅行車が良く走らないという感想をもらされる方が多いわけです。
フランスで生まれた旅行車のアイデア、コンセプト自体は素晴らしいものでした。いまだに多くの国のビルダーやメーカーが旅行用自転車作りの参考にしています。
廣瀬さんは高校最後の春休み、東叡社がフランス車を手本に作った旅行車で九州を800km以上走破。その後、半世紀以上かけて旅行用自転車を探究。独自に改良を加え、製作し続けました。キャリア、泥除け、ダイナモといった旅行に便利なパーツはより便利に。そして最新のマスプロ車以上に「芯が出ている」、良く走る自転車を、と。
以下の動画に登場する2015年製作のランドナーに、その修練の一例を見ることが出来ます。
https://www.youtube.com/watch?v=6yZ8zqVuhQs&t=38s
私が廣瀬さんから伺った「Mさんが所有してたフランス製旅行車にまつわるお話」は以上です。
では、アウターガイド、変速レバー台座、前変速機用台座等がバンド付けで、ロウ付け箇所がさほど無かったMさんのイタリア製ロードレーサーの方は、なぜ良く走らなかったのでしょう?
廣瀬さん、これについては、また別の可能性を仰っていました。それは、特定メーカーのパイプやラグの性質。そして「残留応力」です。
次回に続きます。
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注1 オーダーメイド自転車
自転車におけるオーダーメイドの定義は、そのお店やブランドによって異なります。色だけ選べる。フレームのサイズも選べる。いくつかの指定モデルの中から選べる。使用するパイプから選べる。廣瀬さんのようにフレームやキャリアのデザインをビルダーと一緒にゼロから考えられる...。ほんとうに様々です。
注2 ジオメトリ
その自転車を構成する各パイプの長さの比率や、地面を基準としたパイプの設置角度等、設計にまつわる数値。これらの数値が変えることで、「おっとり」「きびきび」など、自転車の乗り味、性格を変えることが出来ます。
注3 後ろ三角 (前三角)
廣瀬さんは、ヘッドチューブ、トップチューブ、シートチューブ、ダウンチューブで構成される自転車前半分の枠組みを「前三角」と呼び、シートチューブ、シートステー、チェーンステーで構成される、自転車後半分の枠組みを「後ろ三角」と呼んでいました。製作の順番としては、まずはフォーク。そして前三角。最後に後ろ三角という順。
注4 本付け (仮付け)
本格的なロウ付けの前に、パイプの位置決めをする為に、接するパイプどうしを数点でロウ付けし、仮固定することを、廣瀬さんは「仮付け」や「仮溶接」と言っていました。「仮付け」が終わったフレームのパイプどうしは、数点でしか繋がっていないので、力任せによじってもパイプが曲がるのではなく、ロウ付けした箇所のロウが伸びたり縮んだりします。
パイプ同士をしっかりと固定する為に行う最終的なロウ付けのこと「本付け」とか「本溶接」と呼んでいました。
注5 ロウ付け
金属を接合する時に、接合する母材では無い、他の金属を溶かし、それを接着剤のように用いて、金属同士をくっつける技法のこと。廣瀬さんは、鉄のパイプ同士、鉄のパイプと鉄の部品をくっつけるのに、鉄より融点の低い、真鍮や銅等の合金である「ロウ棒」をトーチで溶かして使っていました。
注6 アウターガイド(ケーブルガイド、ワイヤーガイド)
ブレーキワイヤーやシフトワイヤーをフレームに沿って誘導するべく設けられるガイド。例えばブレーキレバーから後輪のブレーキにつながっているワイヤーが漕ぐ邪魔にならないよう、途中何箇所かに設けられます。
注7 ランドナー
フランスで生まれた旅行用自転車の種類の一つ。鞄や、ライトや、泥除け等、旅行に便利な装備が出来るよう設計されています。道が悪かった時代は、太いタイヤの車体が多かったようです。
旅行用自転車には、積む荷物の量や、タイヤの太さや、ホイール径の違い等で、スポルティーフ、フェデラル、ツーリズム、キャンピング等、様々な種類、呼び名があるようですが、国や年代やお店やブランドによって、その定義は異なるようです。
廣瀬さんご自身に車種の定義へのこだわりは無く、オーダー主さんが呼ぶ車種名を尊重されているようでした。ですから同じ設計、装備の自転車でも、ある人は「スポルティーフ」と呼び、別の方は「快走車」と呼び、さらに違う人は「散歩車」と呼んだりすることがありました。
YouTube動画も含めた私のヒロセへの取材とアウトプットに対し、ご評価を頂ければとても有り難いです。どうぞ、よろしくお願い致します。(廣瀬秀敬自転車資料館 制作者)