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光のない路地裏で


轟音が鼓膜を震わせる。ラブホテルに挟まれた小さな空。そのわずかな隙間に、着陸前の飛行機がゆっくりと過ぎ去っていく。大きな機体から車輪が見える。やがて低い音だけを残して、ビルの陰に消える。空には夕暮れの淡い光がもどる。それは子供のころに見た色と同じだった。地上とは別世界の綺麗さで、そのまましばらく見とれた。

休憩3時間で4000円の看板、クラブの前で開演を待っている人たち、路上に椅子を出して座っている老人、サラリーマンが狭い通りにちらほらと見える、ホテルの前で女の子とバイバイをしている作業着の男性、女の子はスマホを操作しながら歩いていく、壁にスプレーで描かれた落書きはどれも似たようなアルファベット、三人の警察官が浮浪者に話しかけている。

「やっぱり大学やめることにした笑」とスマホにメッセージが届く。サクライから。

辞める理由はいくらでもあるけれど、続けるためのお金がないのは知っていた。俺より頭がいいのにもったいないよ、とは返さない。なぐさめの見え透いたセリフはSNSのコメント欄だけで十分だ。「道玄坂にいるけどラーメン食べない?」「ノーマネー笑」「おごるよ」

入学してからよく通ったラーメン屋。一杯650円。全部のせたら1050円。大人にとっては安い金額なのかもしれない。そもそもスーツを着ていたら、こんなに狭くて床がネチャネチャするような店には入らないのかもしれない。

「大人になったら」とサクライが麺をすすりながら言った。「子供のころより、夢が広がるのかと思ってた」

「夢は少ないほうがいいよ」と俺は言った。本心のつもりだった。「分散させたら、どれも叶わない」

サクライはいつものように笑った。豪快な笑いじゃなくて、表情の選択肢が他にないから仕方なく、という笑い方。「文学部に入ったのも、バカみたいだけど、物語で人が救えると思ったから。でも、けっきょくは自分すら救えなかった。バカみたいな話」

バカじゃないよ、と俺はかろうじて言った。それはもちろんサクライにもわかっていることだった。俺は気まずくなって話をそらす。「物語で人を救うって、どういうことだろ」

「崖から落ちそうな手をつかむってこと」サクライは箸を止めて答えた。「今にも落ちそうなその手をつかむことができたら、それは救えたってこと」

俺はサクライを手放すかもしれない、と思った。その他の大勢と同じように。お手軽なハッピーエンドは来ない。でも、それでも。願うことだけでも。

女の子が二人入ってくる。満席だから少しお待ち下さいと店員に言われる。食べ終わった俺達は丼をカウンターに戻して、ごちそうさま、と伝えて店を出た。

せっかくだから神泉駅まで歩こうと提案する。夜は長袖が必要なくらい寒い。気がついたらあんなに暑かった夏が終わっていた。少しだけサクライに触れそうな距離で歩く。

「一つだけ夢がかなうとしたら、なにを願う?」と俺は言った。

「アンラクシかな」とサクライが笑ったので、俺も思わず笑ってしまう。笑えない単語だけど、俺達の間では許される単語。

狭い路地を抜けて、階段を上がったら、切符売り場だ。サクライからPASMOを奪って1万円をチャージして返す。財布に入っていたラストの一枚。大事なのは夢じゃなくて、明日を生きるための現実。

「ちなみに、きみの夢は?」とサクライが言った。

「コロナが落ち着いたら、いっしょに世界を回りたい」と俺は真面目に答えた。「台湾で甘いスイーツ食べて、タイで大きな象に乗って、インドで夕暮れのタージマハルを見て、ドバイで世界一高いビルに上って、ベネチアで本物のゴンドラに乗って、パリのオープンカフェでカフェオレを飲んで、ドイツで朝からビール飲んで、イギリスの古城を見て、ノルウェーでサーモン食べながらオーロラ見て、ニューヨークのチェルシーホテルに泊まって、フロリダのディズニーに行って、最後はハワイでなにも考えずにビーチで一日中過ごすの」

「そんなにたくさんの夢をみたら、どれも叶わないんじゃない?」とサクライが笑った。

「世界を回るっていう一つの夢だから、いいんだよ」と俺は答えた。詭弁だね、とサクライが笑って、改札を通って、振り返った。「ありがと」

「またラーメン食べよう」と俺は言った。「今度は全部のせで」

「それだったら叶いそう」とサクライは手を振った。左右じゃなくて、指先を少し曲げる感じで。俺も手を振り返すと、彼女はホームに降りていった。

見送ってすぐにメッセージが届く。アオイから。「終わったよ。どこにいるの?」「神泉だよ」「向かうね」「いいよ俺が向かう」ハートがたくさんついた猫のスタンプが返ってくる。

道玄坂の雑居ビルの前でアオイに合流する。「会いたかった」と言って、すぐに俺の手をつかむ。しっかりつかんでから、スマホの写真を見せてくる。「今日、撮ったの。なにかわかる?」

ビルとビルの狭い空に浮かぶ飛行機。俺が見たのと同じ光景。アオイは笑って言った。「もっとお金がたまったら、二人で世界を回ろ」

さっき同じことを考えてた、と俺は答えて、アオイの手を握った。でも表情までは見せることができなかった。俺はつかめなかった手のことを思っていた。





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