物語に、殺されないために。

桜の時期だから遠出して川沿いを歩いた。

暖かくて風もなくて、子供たちが走っていて、大人たちはお酒を飲んで笑顔で、老夫婦もゆっくりと桜を見物していて、夕暮れの光がやわらかくて、いま想い出せば、幸せという概念の一つの表出した風景だった。

歩きながら、昨夜に公開した文章について考えると、久々に憂鬱になった。理由は少し経ってからわかった。登場人物に自分の名前を付けたからだ。

仕事帰りの電車の中で書き始めて、夕食後に平成たぬき合戦をチラ見しながら、2話分を作成した。ストーリーに変化を出そうと思ったのか、自分の名前を冠した人物を登場させてしまった。

読み返すと辛くなり、続きを考えることに抵抗する。物語と自分との距離が近くなりすぎたからだ。自分が物語の世界に入ってしまい、発生する出来事にいちいち生身の心が反応してしまう。

物語に殺される。そんなことが起こるのかもしれない。

作者が物語の中に入って動き回ることは、おそらく禁じ手なんだと思う。現実と虚構の差が、少なくとも脳内ではなくなってしまい、虚構が現実を侵食して、精神に支障をきたす可能性がある。

たかだか趣味で書いてる文章でこれだから、小説の中に作者の名前を冠した人物がほとんど登場しないのは、物語に殺されないためなのかもしれない。

筋書きを決めず、脳内で浮かんだ言葉で書き進めた物語は、何年か経って読み返すと、驚くほど当時の心理状況を表している気がする。心の奥で重視していた概念が、封印していた思考や感情みたいなものが、記録されている。

というわけで、禁じ手を犯す前に戻るために、物語に殺されないために、登場人物の名前を変えました。趣味で書いているとはいえ、遊びだからこそ、わりと向き合って書いているようです。




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