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砂漠の月


動物は生きるのに理由がいらない。それがとてもうらやましい。なにも考えずに食べて、なにも考えずに寝て、なにも考えずにセックスする。それで子孫が残ろうと残るまいと、彼らの知ったことじゃない。

僕には理由がいる。すべてに対して。恋にも愛にも誰かと寝るにも、すべて理由がいる。金のため、といえれば収まりがいい。本能で、といえればもっと楽に生きられたのかもしれない。


渋谷駅のハチ公口から、PARCOを目指して坂をのぼる。夜もだいぶ更けて、店の明かりも消える。まだ人は多いけれど、歩道の向こうにシンイチさんがいるのはすぐにわかる。僕を見つけて走ってくる。「メンバーが足りないから、探すの手伝ってよ」

「男ですか?女ですか?」と僕は聞き返す。月曜の夜はいつも人が足りない。

「どっちも。俺は男メインで声かけるから、おまえは女メインで」

「わかりました。二、三人連れていきます」

「助かるわ」

そう言ってシンイチさんは僕を抱きしめてくる。僕は身を固くする。人の体温はどうしてこんなに温かいのだろう? でもすぐに理解する。37℃の物質に触れたらたしかに熱いのだ。


センター街でナンパはしにくいので、ハチ公口まで戻る。

スクランブル交差点に向かって立つ。すぐにきれいそうな女性二人組を見つける。足取りはゆっくりで、大きなジェスチャーで笑い合っている。たぶんいける。斜め前に進んで、「こんばんは、急にごめんなさい」と声をかける。

歩きながら事情を説明すると、一人が「面白そう」と足を止めてくれる。歩行者の邪魔にならないように、二人を隅に誘導する。もう一人に向かって、お願いします、と両手を合わせると、じゃあ1時間だけ、という話になって三人でPARCOの方に向かう。

途中、ディズニーストアの横の階段で、女の子が目に入る。ひとりきりで座っている。二十歳前後。家出かもしれない。僕はその位置を記憶する。

雑居ビルの4階でインターフォンを鳴らしていると、「早いじゃん」と背後からシンイチさんの声。スーツ姿の男性二人組を連れている。背が高くて、俳優のようなイケメンで、僕のそばにいた女性二人組の態度が急に小さくなる。

「もう一人いけそうなんで、戻ります」と僕は非常階段に向かう。「助かるわ。よろしくね」と抑揚のない声が背後から聞こえる。扉の開く音。ビートの速い重低音が一瞬だけ漏れる。


ディズニーストアに向かって走った。街路樹に向かって嘔吐する人。若いカップルはまっすぐ歩けずに倒れそうだ。それらを避けて、自動販売機でミルクティーを二本購入してから、さっきの女の子を探す。同じ場所で、うつむいて座っていた。間に合った。

「よかったら飲んで」と一本差し出して、彼女の隣に置く。ちらっと僕を見て、また膝を抱える。小さくてかわいい顔。久々に胸が締め付けられる。

僕は平静を装って、隣に腰を下ろした。缶のプルタブを引っ張って、ごくごくと喉を鳴らして飲みきってしまう。そういえば渋谷に来てから、なにも口にしていなかった。合成された甘さが身体を満たして、少しだけ落ち着く。

彼女はなにも言わなかった。僕も黙ったまま空を見上げる。機械的な夜。人工的な暗闇。あの向こうに星がたくさんあることは知識として理解している。

「よくここにいるの?」と僕は静かに話しかける。返事はない。でも拒絶もされない。僕は夜空を見つめたままつづける。

「昼よりも夜が好きなんだよね。汚いものが目に入らないから。目に入るものが少なければ、考えることも少なくて楽だから」

しばらくしてから「わたしも夜が好き」と彼女が言った。低い地声。媚を売ろうとしない声。

無視されなかったので、僕は声を弾ませた。「嬉しい。気が合うね。向こうでパーティやってるんだけど、よかったら来ない? お金はいらないから。芸能人とかいるよ」

「芸能人は興味ない」

急ぎすぎた、と思ったけれど、話をそらした。「ここでずっと座ってるの?」

ちょっと間があってから「人を待ってる」と言った。

「彼氏?」

沈黙。答えたくない空気。

「ミッキーなら来ないよ」と僕は冗談のつもりで言った。「今ごろは西の平原で、お月見でもしてるんじゃないかな」

お月見ってなに? と彼女が聞いてくる。世代的に知らないのかもしれない。「むかしは月を見て、お酒を飲んで、甘いもの食べたりしたらしいよ」と答えた。教科書で学んだこと。

「じゃあ、これもお月見じゃない?」と彼女は地面を見たまま言った。たしかに。

公園通りにカーゴが止まる。彼女が立ち上がる。僕は寂しくなって呼び止めた。

「どこに行くの?」

「地球」と彼女は答えた。


真っ暗な宇宙空間に、まぶしい光が浮かぶ。僕は西の平原でひとりきりで見送る。午前二時の定期ロケット。

月面のコロニーは50年前の渋谷を再現している。これも教科書に載っていたこと。代々木公園というものがあった先には、ずっと月の砂漠が広がっている。

この乾いた大地に僕が生まれたとき、両親はすでにいなかった。記録から顔と名前は知っているけど、それがほんとうに両親なのかは確かめるすべがない。過去は全部書き換えられる。

寂しくはない、といえば嘘になる。でも仕方がないのだ。この世界には理由なんてわからないことがたくさんある。それを理解しなきゃいけない年齢なのだ。

「向こうから見たら、ほんとにむかしのお月見だね」と彼女にメッセージを送信した。届いたかどうかはわからない。

たぶん僕は死ぬまでここにいるのだろう。人工的な街、人工的な夜、人工的な雨、人工的な僕、人工的な恋、人工的な…。

夜空を見上げる。手を伸ばす。あの向こうに地球があって、もしかしたら彼女もこっちを見ているかもしれない。なんてね。そんなことはないんだけどね。

でも期待するだけ自由だからね。








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