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あなたは文章を書くとき、どれくらい「嘘」を入れる?


最初は姉の読書感想文だった。

夏休みに書かれたそれは、先生方の評判もよくて、何かの賞をとった。戦争体験のノンフィクションが題材で、姉の筆致は感情的で情緒的で家族愛と人類愛にあふれていて、読んだ人の心を強く動かしたらしい。

感想文が苦手だった僕は、姉に教えを請い、原文を拝読させていただき、読み終わってひとこと(嘘ばっかじゃん、、)と思った。

当然姉には口頭では「感動しました」と伝えた(姉が凶暴で弟が下僕なのはうちだけじゃないはず、、)。

姉の文章は嘘ではなかったのかもしれない。

仮に「本を読んで泣いた」と書かれていたとして、心の中では泣いたのかもしれないし、目の表面には1ミリぐらい水分が発生していたのかもしれない。文章を読んで(心にもないことを、、、)と感じた僕は間違いで、心にうっすらと浮かんだことを100万倍にして表現したのかもしれない姉は。

話を盛る、話を大きくする、100万倍にして表現する、泣いていないのに泣いたと表現する。

これらは狭義の「嘘」だけど、広義では「文章表現術」で。作文の上手だった姉は縦横無尽に単語をあやつり、こころを揺さぶる文章を作成していた。(書かれていた内容が本当なら、姉はとても弟想いの優しい人格者ということになるのに、、と小学生だった僕はふにおちなかったけれど)


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文章に「嘘」が混じることを糾弾したいわけじゃぜんぜんないです。

誰かの文章を読むときに「さて嘘はどれくらい含まれているだろうか?」なんて考えない。

「嘘」をまったく排除したら、味のない、ただの実体験の羅列になるかもしれない。誇張したり、味付けしたり、見せ方を工夫するのは、しかるべき作業で、文章を豊潤にしてくれる(って偉そうだな俺は、、お姉ちゃんごめんなさい)。

僕自身は、「エッセイ」は事実の純度95パーセント以上が必要であり、それ以下なら「小説」が妥当だと、勝手にカテゴリを分類している。

「エッセイ」で、さも事実ですと嘘を入れるのはよろしくないと思っていて(過去に嘘のサイトを作成した反省もふくめて、、)、事実の純度が低くなるなら「小説」。

(「小説」だからといって、ぜんぶがぜんぶ嘘ではないし、実体験にまるで関係のない小説を書ける人なんているのかな?)

純度を下げる理由はいろいろあって、「関係者を傷つけたくない」「事実の方がひどいから表現を和らげたい」「結末を変えたい」「伝えたいのは事実ではなくて『真実』だから」などなど。


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このnoteを書こうと思った理由は、太宰治の「風の便り」を読んだのがきっかけで、その一部を抜粋します。太宰治が好きな理由は、彼の小説には「嘘」がなかったからかもしれない。

創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、「正確を期する事」であります。その他には、何もありません。風車が悪魔に見えた時には、ためらわず悪魔の描写をなすべきであります。また風車が、やはり風車以外のものには見えなかった時は、そのまま風車の描写をするがよい。風車が、実は、風車そのものに見えているのだけれども、それを悪魔のように描写しなければ「芸術的」でないかと思って、さまざま見え透いた工夫をして、ロマンチックを気取っている馬鹿な作家もありますが、あんなのは、一生かかったって何一つ掴めない。小説に於いては、決して芸術的雰囲気をねらっては、いけません。

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・どうしてし事実の純度の低い「小説」という表現形態が必要なのか? 

という話は、そもそも「物語」がどうして必要なのか? という別の問いになるので、また別の機会に。(偉そうだな、、、今日はお姉ちゃんごめんなさい)


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