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村上春樹の「ノルウェイの森」


この文章は小説ではなくて、僕の話になります。

向こう側に行ってしまう物語を最初に読んだのは、村上春樹の「ノルウェイの森」でした。

高1の夏休みに入ったばかりで、本屋で平積みになっていた文庫で初めて知りました。高校は実家から通えない距離にあったので、僕は親元を離れて、下宿生活をしていました。

地元は本屋もない田舎で、両親は小説を読む人ではなかったので、村上春樹という作家の存在も知りませんでした。

帯に書かれていた、100パーセントの恋愛小説という言葉と、おそらくは出だしの数行を立ち読みして、読んでみようと購入したと思います。流行っていたから、というのもありました。

それまでの読書体験といえば、少年ジャンプと、海賊が主人公のライトノベルと、教科書のなかの短編ぐらいで、小説とはまったく縁がありませんでした。田舎の男子中学生としては、それが一般的だったと思います。

下宿の、エアコンのない四畳半の狭い部屋で、汗を流しながら上巻をあっという間に読んで、また自転車を走らせて本屋に戻って、急いで下巻を買いました。すでに夕方でした。

下巻を読み終わって、誇張ではなくて、それまで見ていた世界が変わってしまいました。本を読む前と後で、何かが大きく変わってしまった経験は、後にも先にもあれだけです。

夏休みの間中、僕は登場人物のことを考えていました。どうして向こう側に行くのか。なぜ向こう側に行くことを止められなかったのか。どうしてあっさりとみんな向こう側に行ってしまうのか。

その後の1ヶ月間、実家に帰省していましたが、起きていても眠っているような生活を送っていました。何時間眠っても眠くて、キッチンの椅子に座っていても、また眠っていました。

心の半分が向こう側にいたんだと思います。

小説なんて読んだことがなかったので、書かれていることは実際にあったことだと思っていたし、自分も大学に進学したら、主人公と同じように孤独に過ごすんだろうと考えていました。誰とも何も共有できずに。

18歳で進学して、渋谷にあった巨大なブックファーストで村上春樹のインタビュー記事を読んで、「最初から登場人物の半分は向こう側にいく予定でした」みたいに書かれていて、ああ、作り話だったんだなとわかるのですが、だからと言って、あの話の何かが変わるわけではなかったです。

記事を読みながら、安堵もしたとは思いますが、だからと言って、何かが解決したわけではなかった。

それは、たぶん、あの小説を読む前から自分が、あの世界に共感できる場所にいたからだと思うのです。

小説を読んだのはきっかけにすぎなくて、呼応したのは単なる偶然ではなくて、たぶん僕は中学の後半から、みんなとは分かち合えない気持ちを持っていました。たとえば、恋愛関係についてとか。

田舎の中学生でしたが、エキセントリックな子に振り回されて、感情を激しく揺さぶられて、相当悩んでいました。それは家族にも、友達にも、誰にも相談できませんでした。

とても苦しかったから、心をそらすために、そんなに好きでもない子と付き合ってみたりとか、そんな自分を責めたりとか、一人で散々なことをしていました。坊主頭で笑えるけれど。

そのほかにも家族のなかで孤独だったとか、誰も知らない下宿でひとりぼっちだとか、色々重なった上での「ノルウェイの森」だったんだと今は思います。

中学時代も、その後の出会いも。

誰かとの出会いは、偶然だけれど、たぶんその子に出会わなくても他の子が目の前に現れて、きっと同じようになったんだろうなと思っています。

だから、誰が悪いとか、誰かを責めたいとかではなくて。

誰にでも通じる言葉じゃない言葉を使っても、話し合える相手がいて、でもそれはそのまま、二人は世界から切り離されることを意味しています。

それがつらいから僕は逃げ出したけれど、どうすれば良かったのかは、いつまでもわからないままです。

時間が過ぎても、身体のどこかに、残ったままになっているんだなと、今回のことで思いました。


連日、暗い話で申し訳ないです。また復活したら、何か書きたいと思っています。



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