いつか書けなくなる話。



暗い話ではないので安心してください。

仕事の帰りにふと思ったことで、当たり前といえば当たり前ですが、僕はいつか書けなくなる日が来ます。

物理的にあと50年もすれば書けないだろうし、もっと手前で何かあって書けなくなるかもしれないし、そもそも書くことの優先順位が下がったり、興味がほかに移ったり、様々な理由で書けなくなる。

その事実が、帰りにオオゼキに向かってる最中にふと思いました。もしかしたら先日の台風のせいかもしれないし、両親が年老いてきたとか、自分の年齢のこととか、色々あって浮かんだのかもしれない。

今、僕が書きたい内容も、文体も、おそらく今しか書けない。

10年前の文章は今はもう書けないし、きっと同じように、今書いている内容は、10年後にはきっと書くことはできない。


僕は今年の3月にnoteを始めるまで、5年以上、ネットに文章を書いていませんでした。ツイッターも見るだけだし、フェイスブックもアカウントがあるだけだし、ネットどころかローカルですら、小説も書いていないし、400字程度のまとまった文章も書いていなかった。

書かなくなった、書かなくてもいいやと思うようになったきっかけは、振り返るといくつかあって、

1つは、長い長い小説を書いていて、それが途中で、実家に帰るシーンで、パタッと筆がやんでしまったこと。(もしかしたら、僕はずっと実家に帰りたかったのかもしれない)

2つ目は、両親に宛てて初めて手紙を書いたこと。

3つ目は、原稿用紙100枚ぐらいの小説を応募して、箸にも棒にもかからなかったこと。やりきった感があったので、そこで満足したのかもしれない。

何か書かなければ、何か残さなければ、と必死になっていたけれど、特に残さなくても世界はなにも変わらない。当たり前だけれど。

あと、5年前にちゃんと就職してスーツ着てサラリーマンになったことが大きいのかもしれない。


そういったいろんな事由から、僕は5年前に文章を書かなくなった。だから、また急に文章を書かない日が来ることは不思議ではないし、今こうやって書いていることが、逆に不思議なのかもしれない。

当たり前だけれど、命が無限に続くわけではない。

ビートルズのアルバムは10枚ぐらいだし、タランティーノ監督も生涯で10本しか撮らないと言っているし、ゴッホも活動期間は10年だし、シェイクスピアは……10作以上の名作があるけど彼は別格だ(話がそれている)、つまり、誰もが無限になにかを作り続けられるわけではないのだ。

悲しいとかそいういう話ではなくて、ふむふむ、なるほど、至極当然だな、という話になる。村上春樹ももう70歳です。びっくりですね。

「だからこそ今、書きたいことを書こう」

という当たり前のことを今日は思ったのです。そしてそれをちゃんと形にして残そうと、今書いています。

「こんな文章書いてどうするの?」とか「こんな文章はウケないだろうな」とか「これを書きたいけど、他人様が見たらどう思うかな」とか、そんなことを色々と考えているうちに、下書きがどんどん溜まっていくうちに、

やがて僕らは書けなくなる。書きたい、と思っても書けなくなる。

だから、今、書きたいと思ったことを、遠慮なく、躊躇なく、公開すべきだと思いました。いいんだよ、いつか書けなくなるから。


僕が20年前に初めて作ったホームページは、検索したら今でも上がってくるんです。ネットってすごいよね。20年間、メンテナンスしなくても、ちゃんと残ってる。だからこのnoteの文章も、20年後も、40年後も、僕がいなくなったあとも、残っているのかもしれない。

今書きたいことを、誠実に、ちゃんと書いておけば、まあ後で見返したときに、「あのときはよくやったな」と思うのかもしれません。

(20年前のホームページは恥ずかしくて中身は見れませんが、、)

そういうわけで、私、広瀬ケンは、今後もとりとめのない(小説だったり、エッセイだったり、日記だったり、対談だったり、鬼退治だったり)、なんの脈絡もない文章をあげるとは思いますが、「またなんか変なの書いてるな」と笑っていただけると、至極幸せに存じます。

さて、本日は、これにて公開設定とさせていただきます。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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