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暮れ泥む街の灯を見ながら

仕事帰りのバスを待つ頃、夏場は丁度街が暮れ泥む頃合いの時間帯でとても好きだった。最近はというと、日が短くなって暮れ泥む街の灯をみることもなく、夜の街を眺めながら帰る。

もう秋なのだなと思うと同時に、去年の今頃の私は休職していたのだなとも思った。休職していた頃、早く職場に戻りたかった。けれど症状は良くならず、結局契約社員が取れる休職期間ギリギリまで休職して復職した。

職場のオープン一周年には参加できなかった。今年は二周年に参加したいと思っている。けれど、私の病状はあまり芳しくない。それは如何ともしがたい事実として横たわっている。

時の流れはあっという間で、私はいつの間にか三十路を越えていて、それでもなお学生時代と同じように精神を病み、リストカットやODを繰り返している。私は成長したのだろうか。

小学生の頃から、私の時間は止まっているのかもしれない。もし、いじめられていなかったら。もし、保健室登校にならなかったら。もし、高校を中退しなかったら。もし、もし、もし……

もしを繰り返しても、時間は戻らない。私は今の私を生きるしかないのだ。いつでも自分で死を選べると思いながら私は今日も生きている。生きるのは難しい。戸惑いながら、躊躇いながら生きることが、私の人生のテーマなら私はそれと向きあっていくしかない。

暮れ泥む街の灯を見ながら、昔のことを思い出す。今と向き合う。死にたいと願いながら、生きたいとも願う私は矛盾している。それでも、その矛盾の中で私は生きるしかないのだ。

希死念慮の中、自殺企図の中、いつ私は消えるとも知れない。けれどその日までは、この場所で何かを書き連ねようと思う。この場所は言わば、私の長い遺書なのかもしれない。

支離滅裂になる日もあるだろう。読むに堪えない日もあるだろう。けれど、等身大の私はそこに在るのだ。インターネットの海の中で、私の遺書は残り、そして誰かに読まれることもあるのだろう。

誰にも読まれなくてもいい。自己満足でいい。遺書なんてそんなものだ。

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