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【コンパッション#3】思いやりということ

久しぶりのアウトプットはコンパッションを読んでの3回目。ここ最近感じたことが書籍「コンパッション」で言う「共感」と「共感疲労」の境目であることを自身で認識できたので、その実体験を。

困っている友人を助けますか?

小学生の頃、困っている友達の問題は、自分の力である程度助けになるケースが多い。教科書を忘れた、誰かと喧嘩した、グローブを借りたい、ジュースを飲みたいからお金を貸してなど。できないことは「できない」と突っぱねたとしても、小学生は社会的責任を果たすべき立場ではないからなおさら断りやすいし、自分自身でも整理しやすい。
では社会人となるとどうか?
社会人になってから起きる友人の問題というのは、たいていの場合は社会的責任や環境から生じることが多く、とても友人としての自分の立場では解決できない。だが「自分は小学生だから」と断ることもできない。困っている友人を助ける場合は自分の何らかの犠牲を覚悟の上となる。

ではここで問いたい。

「友人は私がリスクを抱えてまで助けてほしいか?」

友人は決して助ける相手の不幸など望まない。なぜならそれがあなたにとっての本当の友人だから。

ただ在るものを在るとだけ観る

友人を助けるためには自分の犠牲が必要。その場合はどんな行動を取るべきか。これが共感と共感疲労のはざま、エッジステートとなる。ではまず自分の払う犠牲がどこまで自分にとってのリスクなのかを具体的に可視化する...のではなく、まずは「共感するべきかどうか」について検討したい。友人が困っている。友人が困っているものは何か、何によって困っているのか。そしてその困っていることは一過性か持続性のあるものか、何らかのステークホルダーに対して便益を返すものなのか。まずそこに確かに在る「友人を窮地に追い込んでいる課題」を明らかにしたい。その一方で、そこに在る友人の苦労、苦悶に対しては心から傾聴、つまり「共感」する。その上で「共感」からは踏み外さない。自分では助けられないことであっても「共感」はするが「共感疲労」までは至らない。課題が何かを見定めていれば、こうした状況の分析が可能となる。

窮地に追い込まれた友人へできること

我々はつい「思いやり」の心は美しいと感じ、コンパッションを構成する思い - 「利他性」や「共感」に走り、気づいたらエッジステートから足を踏み間違いがちである。こうした感情を持つ前にやるべきはなぜいま相手は問題に直面しているのか、ありのまま観ること。そして友人に寄り添うということ。解決しようとすることはその先であり、自身に与えられた役割ではないのです。

Photo by Jude Beck on Unsplash

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