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研究テーマを発見するときの【先行研究】との距離の取り方

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねていました。いまは有給休暇の消化中です。8月下旬に退職します。

今回は、研究の話をします。卒業論文、修士論文などの参考になると思います。※三国志の中身の話はしません

先行研究との距離感に関する問題

研究論文(卒論を含む)を書くとき、
①先行研究でやられていない
②先行研究に論の飛躍がある
などをキッカケにする手法がありますが、ぼくは違和感があります。

先行研究を踏まえることはもちろん大事です。研究テーマを見つける入口として、この導入方法①②に重きを置きすぎると危ういのではないか、という意見を言いたいのです。

①先行研究がないことには理由があって、
A_材料(資料)がなくてやりようがない
B_重要性が低くてやっても仕方がない
という2つの可能性があります。できればこの2つの可能性に対して、反論できるようにしたい。
A_少なすぎる材料を強引に扱って不確かな論証をしたり、材料が少なすぎるがゆえに案の定、研究のやりようがなく、結論が他の先行研究に相乗りし合流して終わった、では惜しいと思います。
B_個別の指摘はしたがどこにも繋がらなかった、言ってみただけで終わった、so what?? 以外の感想が出てこないのでも惜しいです。「先行研究がない」を第一・唯一の研究動機に持ってくるのは違う気がします。

②先行研究に異議を表明するのは、研究の主務・王道ですが、先行研究が持っている文脈(他の研究も含めた研究史の流れ、その研究者の他の論文との関係)も踏まえて、異議を言わないといけないと思います。
大きな絵図面のなかでは(やや飛躍があるが)そういう指摘にならざるを得ない……みたいな周辺部分だけを否認してもあまり発展しないのではないか。レンズのへりで映して像に歪みが大きく出る部分を「詭弁だ」と言っても、批判として機能しないかも知れません(研究者は自説に整合性を取るために、論の周辺部分を歪めてよいという意味ではないですが)。

だったらどうするか

研究論文(卒論を含む)を書くとき、
①先行研究でやられていない
②先行研究に論の飛躍がある
という入口は、あまり良くないと思う、という話をしました。

①先行研究がないとき、
A_新たな材料が発見された(出土した、公開し閲覧可能になった)ときは、研究ができます。しかし、新たな材料にいち早くアクセスするための立場・権限を確保しなければいけない。これは狭義の研究活動とは別の努力が必要な気がします。
B_先行研究で重要性が顧みられなかった材料を扱うならば、その材料が重要となる「ものの見方」、問題設定をすればよい。先生や同業他者から、so what??と聞かれたら、研究に向かう自分の興味関心、解き明かしたいことの見通しを語れれば、「同意はしないけど、やりたいことは分かった。成果としては認められないが」ぐらいには到達できるでしょう。これぐらいの落としどころが得られたら、研究としては大成功ではないか。

これ以上のこと、つまり、自分の「ものの見方」が定説として支持され、ほかの学者が自分と同じように研究テーマを見つめるようになることは、個人の力ではコントロール不能です。作為的に目指しても仕方がない。

②先行研究の一部分や周辺部分だけをあげつらっても発展性がないかも知れない、という点については、2つの戦略があって、先行研究の
a 絵図面に乗っかる方法
b 絵図面を突き破る方法

a 絵図面に乗って入り込むならば、「あなたの議論をより整合的に組み立てるならば、このように理解すべきだ」「その論じ方をすると絵図面がくずれるので、論証に含めるべきでない」「この材料を含めたほうが、より大きく美しい絵になる」と言えばよい。
b 絵図面を突き破るならば、自分なりの大きな「ものの見方」を構築してぶつける。

a のほうが小手先で、bのほうが壮大に見えますけど、厳密に区別できませんし、優劣はないと思います。a 絵図面の修正を提案しているうちに、b 自分なりの大きな絵が派生して生まれることがあります。
ともあれ、枝葉末節に対する違和感、詭弁に対する嫌悪感は、研究を始めるきっかけ、テーマに着手する動機にはなりますけど、それ一筋で押し切れるほど、研究という活動は奥行きが浅くないと思います。

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