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ぼくが「大学院での学び」をネット上に上げていく理由

佐藤大朗(ひろお)です。会社を休んで、早稲田大学の大学院で、三国志などを勉強しようとしています。

ひとの行動には理由があります。行動をする理由は、置かれている立場で決まります。立場とは、経済的におかれている状況です。 #史的唯物論

大学の先生はネットで発信しない

大学の先生が、大学での研究をインターネットで発信する理由はないんですよ。「学びたければ、大学院にいらっしゃい。皆さんをお待ちしていますよ。以上!!」となるからです。
開かれた(不当にひとを排除しない)受験制度を設けています、規定の授業料を払ってくださいね、来るものは拒みません、と微笑む。大学の先生の給料は、入学試験や授業料から出てます。

大学の先生が、一般向けに研究成果を見せたり(市民講座、テレビ出演など)、資金集めをしたり、企業と連携したりすることはありますが、目的ごとに応じたものであり、学びのプロセスを開示するのではない。

大学院での学び、それ自体を、ネットに載せる意味はないです。
中途半端に開示することで、受験者数が減り、入学者が減るならば、損をします。学びの楽しさを、囲い込むのが正解です。ふつうの判断です。

大学院生はネットで発信しない

大学院生が、研究をインターネットで発信する理由もない。
最大の関心事は、アカデミック・ポスト(大学での就職口)です。就職先を獲得するために、有利になることなら、絶対にやりますし、不利になるならば絶対にやりません。
就職に益するのは、査読(審査)のある学術雑志で、定められた形式で、成果を発信して評価されることです。ネットに出すわけがないです。また、ネットに出している余裕はありません。

アイディアを盗まれたら、デメリットしかありません。学術雑志に発表した後ならいいのでは?というのは、外部の目線です。
「ネットをしているヒマがあるなら、研究しろ」って自分の先生に怒られたり、「ネットでうつつを抜かしている」と同業者のなかでウワサされたら、やはり、就職に不利になります。

会社員も業務上、知り得たことは、ネットに書かないですよね。ちょっと違うかも知れませんが、実生活が不都合になることは避けます。常識です。

だからぼくはネットで発信できる

ぼくは2021年の春から、大学院の授業に出られるようになります。

ぼくは、休職中の会社員です。すなわち、大学の先生ではないです。悪い言い方をすると「情報を囲い込むこと」の利益がないです。
大学院生でもないです。アカデミック・ポストを欲してもいません。だから、ネットに大学院での学びを載せることができるんです。もちろん、さまざまなルールを守った上で、内容を選びますが。

先生に対しては、「志望者・受験者が増える、間接的なお手伝いになれば」という説明をすればいいと思っています。大学院生から見ると、自由に(本名で)発信できて、気楽そうでいいなーって思われるかも知れません。気楽に生きていきます。

べつに、ネットに上げなくてもいいじゃん?
とは思いますけど、ぼく自身、「どれだけ足掻いても、会社員の立場では、全然勉強がはかどらない!研究なんてできない!」という、独学者の限界と苦しみ、惨めさと怨みのようなものを感じていました。
同じことを思っているひとは、きっといるはずなので、そういうひとたちに、参考にして頂ければ、個人的な喜びになります。これが動機っす。

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