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令和の大学生の「透明人間」戦略/なぜ大学生は教室で気配を消すのか

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
ぼくはアラフォーにして大学院の修士1年生になりました。令和の大学生は、「学年」が近くて接点があります。学部生と同じ授業に出ることがあります。
ずっと不思議だったんですよ。彼らが恐ろしく消極的なんです。武術の達人が気配・存在感を消すように。透明人間に化けて敵軍に潜入し、物音を立ててそこに居るのがバレることを恐れるように。

本を読んでます。金間大介『先生、どうか皆の前でほめないで下さい:いい子症候群の若者たち』という本です。著者は大学教員として、令和の大学生の生態に戸惑っている側の人間であり、現代の大学生の生態を明らかにしようとした本です。
ぼくは大学教員ではないし、企業の新卒採用担当でもない。令和の大学生を「お客様」としてもてなしたり、「面接」で探る必要もない。学年がいくつか違う、「同学」として接するのみですが、すごく参考になりました。

金間氏をなぞって、ぼくの観察した大学生を描写してみます。

教室では、存在感を消す。(物理的な)透明人間ではないから、教師の目から、すがたが見えているのだが、「見えてますよ」というメッセージを送られることを嫌う。たった数人しか出席しない授業でも、話しかけられたり、当てられることを嫌う。ほめられることも嫌う。あたかも自分が存在しないかのように、扱ってほしい。
ドッキリ企画、もしくはイジメで、「Aくんのすがただけ、だれにも見えていないことにしようぜ」というのがあった気がしますが、そのドッキリ・イジメを仕掛けてもらいたがっている。

令和の大学生は、「全員の同意がおのずと形成され、だれの主導でもなく物事が決した」という見え方になることを、無心に追求します。明らかにダメな結論にならないように、無言で結論を導こうとするから、何をするにも、ものすごく時間がかかるんです。
たとえば、テーブルの上のボールを突っつきあって、適正な位置にするゲームに似ている。自分が手を出したのを見られないように、全員の目がそれているときに、ちょん、ちょんと、ボールを少しだけ触る。

令和の大学生は、「年長者(先生や先輩)が頼み込んだので、仕方なく発言や行動をした。本当は何もしたくなかったのだが」というストーリーをくずさない。その行動によって、自分が損をしようとした(恩を売ろうとした)とか、得をしようとした、という意図が表れることを嫌う。環境・状況の力によって、ほかに選択肢がない状態で仕方なく動いたところ、この結果が導かれた……けれども、動機や結果には一切関知しませんよと。
太陽が東から昇り、リンゴが木から落ちるように、この議題はある結論が出ましたが、物理法則だから、どうしようもなかったよね、という。

ですから、年長者がしびれを切らして、かってに結論を出すか、かってに行動をやってしまうことを、持久戦のように待っている。
年長者が、「選択肢として、AとB、Cなんかがあるね」と言うだけでは、令和の大学生は動かない。「選択肢の選び方として、たとえば、甲や乙、丙なんかがあるね」と言っても足りなくて、「乙の方法で選択肢を決めて、Cの方法を選ぶと、ことがうまく運ぶのではないかな?どうだろう、意見があるひとは、言ってほしいね」と年長者がゲロすると、「そこまでおっしゃるならば、それで異存はありません。Cで結構です」となる。

金間氏は、「究極のしてもらい上手」と捉えます。
ちょっと怨嗟のこもった表現ですけど、めちゃ分かります。年長者が、ピエロになってゲロを吐いて、かってに踊ってくれるまで、じっとりと粘るんですよ。無言で。大学の先生って、大変ですね。

金間氏は、野球部で花形のポジションにだれも立候補しない場合を例に、「読者のあなたが林修と松岡修造を足して2をかけたタイプの人なら、『君は本当に野球がやりたくてやっているのか。今やらなくて、いつやるんだ? さあ、本当の自分に問いかけてみよう!』とでも言いたくなるだろう」と書いています。
めっちゃ分かる。金間氏は、「足して2をかけた」って茶化してますけど、これ本当のことを言ってないですね。令和の大学生のステルス姿勢を見ていると、年長者のなかの、松岡修造と林修が呼び覚まされるんです。年長世代のなかでは、どちらかというと冷淡・冷静なひとですら、令和の若者を見てると、相対的に、林修と松岡修造になっちゃうんですよね。「足して4で割った」としても、大学生に対して同じことを言いたくなるだろう。

令和の大学生が消極的な理由

まだ本は途中ですけど、ぼくなりに、令和の大学生が、「自分が何かを発言し、決定に関与する」とか、「言動をしたことが明るみに出て、功績が自分に帰属する」ことを極端に嫌う理由を考えてみました。

日常生活は、環境が固定され、出会うひとが限定されているので、「同じ牢獄に入った囚人の仲間社会」に譬えられるだろう。囚人が餓死しないように、看守さんが食糧を支給する。

現代の若者から見える食糧支給のあり方は、「囚人が10人いるのに、食糧が9人分しか支給されない」ときと似ている。支給されたとき、「オレ、1人分を食べます」とは言えない。だって、自分が1人で1人分を食べてしまい、これを9人がくり返したら、食べられないひとがいる。

最古参の囚人が、「今回は、こういう配分でいこう」と決めてくれるまで、食糧に手を伸ばさずに、じっと存在感を消すしかない。
最古参が、おのおのの自主性を尊重し、「きみはどんな分配法がいいと思うかね?」と質問しようものなら、地獄です。聞かれたひとは、どんな答えをしても、怨みを買うだろう。
怨みが向かうべきは、「10人いるのに9人分しか支給されない」という状況そのものなのだが、これは所与の前提だ。動かせない。意見をねちっこく求められたら、「どれだけ手間をかけても、9つのパンを10等分するべきです」以外に言えない。しかし、現実的な方法なんてない。パンを粉砕してグラム単位で実行したところで、不味くなるだけ。

さらに地獄なのは、明日も「10人に9つのパン」が保証されているならば、当番制でご飯を抜く、という選択肢もあり得るが、明日は「10人に8つのパン」となるかも知れない。そちらの恐怖にリアリティを感じる。
すると、うっかり「今日は、自分がメシ抜きでいいよ」とも言えない。音頭を取って、順繰りに空腹に耐える方法を提案したひとは、前提がくずれてパンが8つになったとき、責任が取れない。

パンは、社会的なリソースや富、と置き換えてください。
ぼくらは囚人ではないけれど、無国籍なアイデンティティをもち、世界市民として自由に移動できる!!わけではないから、あるていどは日本という枠に貼りついて生きていくしかない。
「10人いるのに、9個のパンしか支給されない。明日以降、8個あるいは7個になるかも知れない」という心理状態と、令和の大学生の生き方が、一致するのではないか。とぼくは考えました。

上の世代は、10人に対して20個のパンが支給された。明日のパンはもっと多いかも知れなかった。だから、「たらふく食べるお調子者」がいても、ヘイトが向かわなかった。みんな満腹で小太りだった。
アラフォーのぼくが社会に出たときの感覚は、「10人に12個のパンが支給され、もしかしたら今後、減るかも」でした。積極的なひとが手を挙げて2つ食べたとしても、それほど咎められなかった。「お前は、どうしようもないやつだ。明日は1個にしろよ。べつのやつに、2個目の権利を回すように」という感じ。たまに3個食べるひとがいると、バッシングされるけれど、残りの人が飢えるほどではなかった。悪口を言いながら、分け合えた。明日の余剰分のやりくりで、バランスを調整しましょうと思えた。
積極的な「オレが、今、食べます」という人が、トータルで得をしていたし、そのような人間を「養う」余裕がまだあった。

令和の大学生に見えている日本社会の現状と未来が、「10人にパン9個、明日は8個あるいは7個」だから、その牢獄のなかで孤立しないように、存在感を消しているのではないか。これはぼくの思いつきです。

彼らは、自由意志を放棄した消極的で無能な人々ではなくて、環境に最適な行動を選んでいるだけなんです。
上の世代もまた、環境に合わせていただけです。「本当にやりたいことをやるなら、今でしょ!」と言っていたのは、今日のパンに余剰があり、かつ明日はもっと多いかも知れないという期待があったからでは。

大学の先生、企業の採用担当のみならず、あと数年で「令和の大学生」を職場に迎える大人たちは、読んでみてほしい本です。

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