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複業と副業/三国志研究は「なりわい」と「ごう」

中村龍太『出世しなくても、幸せに働けます。複数の仕事で自分を満たす生き方』という本を買って読みました。

27ページに「副業」と「複業」の違いという表があります。
「副業」というのは、金銭的収入の増加を見込んだもの。会社員としての仕事が「主業」であり、そのサブとしての位置づけ。これは要するに、「社外で残業する」みたいなものですから、新たに理解することはゼロなので馴染みますけど、もう働きたくないよパトラッシュ。
「複業」というのは、字面はこのnoteでもときどき見るんですけど、ぼくもよく分かってなかったんですよね。「業=ギョウ」というからには金銭的報酬をめざすものであり、儲かるものしか「業」と認めねえよ!……という、狭隘な思い込みを取っ払うことから、始めてみませんかと。というか、カネで捕捉しようとする限り、それじゃあ、「副業」ですからね。

なんのかんのと漢字の学問を無視して、「人材」を「人財」と言い換えてみましたとか、そういう茶番とは、一線を画します。(言葉遊びにすらなっていない)言葉遊びではいかんのです。
「複業」とは「複数の副業」である、副業の掛け持ちなんだ、というのも違います。僅かばかりの金銭的報酬とひきかえに、自分の時間もエネルギーも生きる喜びもなくなっちゃうんで。そういう勘違い、多そうじゃないです??命をけずって掛け持ちしても、棺のなかには、六文銭しか持って行けませんからね。たくさん貯めても、意味ないんですよ。三途の川の渡し賃は値上がりせず、消費税もかからないはずで。海外取引という扱い?

著者が説いている「複業」というのは、金銭的報酬のみを追求するのではなく(ただし金銭的報酬を受け取ることは拒否しない)、
・経験の報酬(その仕事を通じ、ほしい経験・スキルが身につく)
・つながりの報酬(ひととの信頼関係、ブランドが得られる)
といった種類の報酬にまで、間口を広げて、これらを「収入」として得られるものは、「業」に含めて宜しかろうよと。概念の定義を緩めることを言っているんですね。これは、リクルートワークス研究所の成果をアレンジしたものが、194ページに載っています。

この本は、会社での勤務で、金銭・経験・つながりの報酬をすべて得る必要はなかろうとも言います。著者は、日本マイクロソフトで、これをすべて得ようとして、ちぐはぐになったそうです。
同じようなこと、ぼくも書いてましたね。

くり返しになりますが、金銭の報酬が得られなかろうと、「業」と認定する幅を広げてやりましょう。この作業は金銭の報酬がないから、「下手の横好きですぅ、趣味ですぅ」みたいに謙遜する必要はないのだと。経験・つながりを得るためにやったなら、それを「業」として認定して、それをやっている状態を「複業」として宜しかろう。すると、あら、どうでしょう。だれでも「複業」をやっているではありませんか。勇気づけられますね。憑きものが落ちたように、修行が一瞬で完了しちゃうそうです。

このあたり、「概念操作に過ぎない」という気もするんですけど、このように考えることで、会社との距離の取り方もうまくなるし、ほかのことにも意欲を持って取り組めるし、その結果、だれかに喜ばれ、自分もスキルアップとか名声のアップもできるから、トータルで見ましょうねと。

いや、既存の常識のほうが、不当な概念操作が入っているのか??このあたり、「会社でがんばっていれば、悪いようにはならん」という二十世紀的了解のほうが、歪んでいたし、手抜きだったのかも知れません。
「デート代をぜんぶ出してくれるから、ほかの欠点は全部、目をつぶることができるわ」っていう恋人が貧乏になったとき、はじめて、この人のどこが好きなのか?どんな会話をしたら楽しいの?そもそも恋愛って何?付き合うって何?結婚は視野に入るの?って、真面目に考え出す、みたいな。

同じことを何度も書いていますが、「業=金銭的報酬」という一対一の関係をくずすことで、見えてくる世界がちゃいますと。ただし、何をやっても自由だあ、というアナーキーな話ではなくて、著者は、週4日勤務のサイボウズという会社で、生活費をきっちり稼いだうえで…、という設計になっているので、へんな期待感をあおる本でもありません。
直接は書かれていませんが、子供が独立し、必要なお金が減ったあたりから、金銭的報酬を目指しての忙しい仕事を減らしているようです。

著者は、かれ自身は2013年に、サイボウズで週4日勤務にし、残りの3日にべつの会社で業務委託というかたちで働く、、これにより20歳前後の2人のお子さんの教育費を稼ぎ出す、となったそうです。

時代背景もあわせて、「複業」のことを考えてみると、
2013年には、「副業」すら市民権を得ていなくて、公務員でなく私企業の社員であっても、背信行為みたいな雰囲気だったよと。ああ、そうだったかも知れません。そして、2020年の感染症が直撃しましたよと。

著者が、出世コースをめざす会社員として挫折し、「副業」から「複業」へと認識を切り替えていった2010年代の10年間って、
ちょうど、日本経済が不可逆的なダメージを食らったというか、東日本大震災でパラダイムが変わるぞ変わるぞと言われてもあんまり変わらず、中国と決定的な差が付いてしまった期間と、重なっていると思うんですよね(ぼくの感想です)。このように、日本経済が壊れてしまった、傾いてしまったから、会社としてもやむを得ず??もしくは口実を待っていたのか??で、「終身雇用はムリでーす」と言ったり、「副業をむしろ奨励するよ」という動きになり、
こういう出世コースからはずれたひとが、概念操作(二十世紀的な思い込みを解除)をしても、「世間」から後ろ指をさされず、むしろ本まで書いちゃって、というマクロな潮流があったのだと思います。
どちらかというと、ぼくもそちらに便乗したというか、そのほうが幸福度があがるっぽい人間なので、これは嬉しいです。

著者は、「複業」をする生き方を「人体実験」って言ってますけど、ぼくも同じような記事を、初期のころに書いたのでした。

社会学の実験サンプルみたいなもんだと思います。公開実験をしても、クレームが入りにくくなった。そういう意味では、社会の急激な変化というのも、悪いことばかりではない。このへんは、著者も、べつのかたちで仰っていたことです。

ぼくは、金銭的報酬については、会社員として復職する予定があるのと、金融商品のトレードがあるんですけど、それともう1本が、三国志の研究なんですが、
これを「業(ギョウ)」と呼んでよいのか躊躇があったのですが、「ギョウ」でいいんだろうと。1円にもならないのに勉強がしたいので、カルマ的な意味で、「業(ゴウ)が深い」とは思ってました。これは、漫画家の青木朋先生から直接聞いたことです。おあとがよろしいようで。

今月課した宿題も、「複業」として概念操作したら、答えが出るのかも?
「二足のわらじ」という比喩は、「副業」のもの。とりあえず、足もとが快適で移動ができるものとして、「わらじとレッドカーペット」という比喩が、「複業」に合いそうです。履物で揃えたら、「複業」のおもしろみが伝わらないんですよね。履物は揃えろって、躾けられましたが。

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