見出し画像

大学院生はお金持ちか/資産所得倍増は伝わらない

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

同業(経理屋)の知人と話していると、お金の話をしがち。お金についての不合理、もしくは非中立的な価値観に揺さぶられて、楽しいと感じます。

去年、政府が「資産所得倍増」というメッセージを出しました。実行されるか否かはだれにも分からないわけですが、肌感覚のレベルでは、みんなに伝わらないだろうなと感じます。
なぜなら、ぼくたちは、「年収」でお金の有無を判定するから。

「労働の対価としての収入」の多寡にしか、肌感覚がついてこない。
極端な例では、「月給が5万円、株の配当が1000万円」のひとに、「月給が20万円、資産ゼロ」のひとが、「おごってやるよ」となる。羽振りのよさは、月給によって決まります。ふしぎ。
資産所得は、おもてに出ない。相場は不確定で、一寸先は闇だ。資産所得は、本当のお金?ではないため、財産として認定されないのでしょうか。いやいや、課税対象になるし、日々の支払いにも使えます。

むかし、医学生か研修医が主人公の漫画で、
「医者はお金持ちか」
という質問に対し、「医者は金持ちだよ。医学部の高い授業料を払えるんだから」という、ひねった回答がありました。授業料を払った直後、医学生の手元にお金は残らない。現時点では金欠かも知れない。しかし、長い年数にわたる高額の学費負担と、低収入?の研修医の期間に「耐えられる」のはお金持ちでしょうねと。

同じことは、「大学院生はお金持ちか」にも言えます。大学院生は、多くの場合、現時点では金欠。文系の大学院生ならば、将来にわたって金欠かも知れない(その点が医学生と異なる)。
じゃあ、大学院生はお金持ちじゃないのか。
大学院に通えるだけの経済的・心理的余裕があるから、お金持ちである、という見方もできる。親の理解と経済力によって支えられている、あるいは、「すぐに労働しないと不安だ」という価値観から自由である。どちらにせよ、お金持ち(だと思います)。

ぼくは休職中なので、労働ゼロです。2年以上、給与所得をもらっていません。すると、「気を遣われる」んですよ。15年来、サラリーマンを続けていたので、初めての感覚。「働いてないのに、払わせちゃってゴメン」みたいな配慮をされることも。
後輩とコーヒーを飲むと、いままでぼくが少し多く出してた相手でも、「いいですよ」「だいじょうぶですよ」と、気を遣われることがあります。粘ってもダサいので、多くは出しません。

月給ゼロのぼくは、やっぱり貧乏なんですかね。
でも、働きもせず、好きな三国志の勉強だけやっているひとって、狭義の貧乏とは言えない。上の医学生のロジックです。
ぼく自身、労働期間中と同じようにお金を使っている。なんなら、気持ちに余裕が生まれて、よりお金を使いやすくなっている。「あんな(不本意な)思いの代価としての月給だ、めったな無駄づかいをしないぞ」という警戒心が緩んでいるんでしょうか。

医学生にせよ、大学院生にしろ、「当月働いて、当月支払いを受ける」という単月の損益計算から自由である。この緩さを手に入れるには、資産所得を得るように、労働の有無・負荷感にこだわり過ぎず、時間の幅をもった発想が不可欠です。ガンバリの対価を小まめに回収する、という世界とは異なります。

「資産所得の倍増」は、当月に変化がないか、むしろ、積立用の口座に資金を持って行かれるので、サイフが貧相になる。誤りを恐れず実感に寄せて表現するなら、「年収ダウン」と同じ痛みを受ける。しかし、5年後、10年後にリターンがある(かも知れない)という感覚です。
ぼくは、投資家あるいはトレーダーなので、資産所得が入る感覚は分かりますし、倍増したらいいなあと思っていますが、「羽振り」の判定、「持てるもの」か否かの「気遣い」が、月給(年収)の序列によってなされる世界で、なかなか定着しないだろうなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?