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【語学】効率よりも、言語に触れた時間の長さ

佐藤ひろおです。会社を休んで三国志の研究をしています。修士課程の入試を控え、外国語(現代中国語)に勉強プロセスを記録しています。

さまざまな勉強方法を試してきて、正解と思しき結論に達しました。
語学能力は、その言語に「五感をさらした時間」に比例する。
#ここが結論

「大人」の勉強法と「語学」は異なる

思うに、大人の勉強は、「生産性」を上げるための「投資」です。いかに効率よく、時間・力のインプットを最小限にし、一定の成果を出すのか、というゲームです。
仕事で成果を出すにも、趣味や専門的な学問をするにしても、「生産性」に着目すると、おおむね上手くいきました。そのルール変更に順応したからこそ、今日の自分があると思ってます。

今回、語学(現代中国語)をやってみて、思いました。学習方法の優劣、効率の良し悪しは、あまり関係がない。それらを無視してよいほど、「勉強時間の長さ」それ自体が、実力に直結します。
なんと愚直で平凡な結論でしょうか。

それもそのはずで、母国語話者(日本人なら日本語)が、読み書き・聴き取りが上手いのは、頭がよいからでも、学習方法が優れているからでも、生産性が高いからでもない。
ただ単に長時間、その言語に触れているからですよね。

あえて理屈をこねくり回せば、「長時間ふれるだけでは、マスターできない」ものは、言語として欠陥があります。淘汰されているはず。現状、使用人数の多い中国語や英語が、そのような欠陥を備えているはずがないんです。「時間をかければ誰でもできる」ことは、必定です。
ビジネスや学問の専門分野で、「時間をかければ…」ということのほうが少ない。適性や能力が要請されることが多い。語学は、それら専門分野とは異質の学習対象である、という自覚をすることがカギです。

言語運用の専門家になるなら、研ぎ澄ました勉強法を準備する必要があるでしょうが、日常会話+αぐらいの実力を付けるまでは、もっとも優れた語学の取得法は、言語に触れる(五感を暴露する)時間を長くすること。

いわゆる知的労働のように、最良の環境・方法を追求しなくてもよい。ダラダラでも、長時間、接することに価値があるようです。盲点でしたね。2周半ぐらいして帰ってきましたね(笑)

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