社会不適合者と修正テープの歯車
佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。
準備があるので、うつ病は回避するつもりですが、
ぼくは自分のことを、社会不適合者だなと思います。
さいきん、キャリアの悩み相談をする動画をたくさん見ています。3人に1人ぐらい、あるいは2人に1人ぐらいが、自分のことを「私は社会不適合者なんです」と言います。
ぼくも社会不適合者です!
と共感する反面、
他人のことだと客観的に見られます。いま所属している組織(お役所や会社)に適合していないだけで、病気や疾患の類いではなさそうだ。
医学的っぽい言葉を使ってますけど、それ違うような気がする。
適性がありそうなこと
ぼくは、個人でものごとを突き詰めて考えるのが好きです。
三国志の研究をするようになって、その性質をますます自覚します。
明らかでないことがあると、「自分の能力不足だ。訓練せよ。勉強せよ」と心から思います。
難解な古い文献がある、外国語で書かれた抽象的な論文がある。それらにアクセスできるのに、自分が愚かなばかりに、ものごとが明らかにならない。そんなとき、意欲がわいてくるし、がんばろう!と思えます。
ぼくの研究テーマは、外国の歴史(遠い場所・過去のこと)なので、
・現存する材料・証拠では分からないこと
・アクセスできない材料・証拠
があるのは分かっています。
考古学者が発掘した最新の遺跡や、遺跡から出てくる木簡や竹簡などは、ぼくの権限(立場)ではアクセスできない。しかし、別の材料・方法を選べばよいと思います。
※本当に木簡や竹簡を使いたければ、使える立場になるように攻略する方法を探すでしょう。現状は自分のなかでニーズを感じていませんが。
適性がなさそうなこと
やっている研究との対比、という側面が目立つのですが、
個人で突き詰めてもどうにもならないことに直面すると、頭が痛くなるし、胸が苦しくなるし、めまいがするし、倦怠感が出ます。※今です
関係者がものすごく多い伝言ゲームで、
・みんな自分のこと/重要なことと思ってない
・だれに責任や動機があるかよく分からない
・なぜやるのか関係者のだれも説明できない
・作業を間違えている(ことにも気づいてない)
・忘れている/やらない
・対応する人員数がいない/能力がない
・そもそも全体の建て付けがおかしいのでは
みたいなプロセスで、
だれのメンツも潰さないように、そこそこの回答を出して、「ノリを合わせる」ことが、ぼくはとても苦手です。
上記は、特定の職場を指しているのではなく、仕事のタイプ・類型としての話です。むしろ、言わずもがなの組織の常識、当たり前の性質を、ぼくがことさらに言語化して騒いでいるだけ、という気もします。
自分が突き詰めても、どうにかなるものではない。伝言ゲームに挟まっている特定の個人を責めても、どうになるものでもない。
「みんなツラくて、みんな曖昧でいい」
この状況に耐えられない。
突き詰めて正しさを求めようとすると、組織からはみ出す、嫌われる、「役割を分かっていない」と言われるペナルティがあります。
むしろ経験上、突き詰めて考えない方が、うまくなじめる。
考えるな、考えるな、思考を殺せ、と念じることで、思考のリソースの9割を使う。使ってきた。会社に行く前に、体も頭もヘロヘロになるまで(自分の好きな)勉強をして、抜け殻で出社すると、まことにほどよい。
ひとによっては、「みんなで我慢・努力しながら、できる範囲でマジメに回す。その状況こそが美しい」と思うでしょう。
「与えられた役割をまっとうすることに目を向けろ」
「サラリーマンってそういうものだから」
という反応が返ってくることも多いです。
「不満があるなら、きみがトップに上り詰めて改革してみろよ」と言われるかも知れません。※やる気が起きませんが
先週はえらいひとから、「職場が混沌としていても、ぼくらは会社の歯車なんだから、だまって役割をこなせ」とクギを刺されました。デスヨネーと、おべんちゃらを返すのを忘れました。
会社員を15年以上やってても、そんな基本的なことすらできない。
社会不適合者だろ、これ。と思いました。
そのあと頭が痛くなったんですけど、スケルトンの修正テープのイメージが、頭にこびりついて出てきました。カラフルな大小のギアが1000個、あるいは10000個が連なり、ギシギシ、ミキミキと回っている。なにかの拍子に一斉にそのギアが軸から外れて落ちてくるイメージが思い浮かんで、ぎゃーってなりました。ザザザー、バラバラバラ。ぞぞぞぞ。
「何を子供みたいなことを言っているんだ。自分を殺し、社会の歯車、会社の歯車に徹することが大人になることだぞ」というお説教は、百万遍ぐらい聞いているので、ノーサンキューです。
また、
「多くの人が協力しないと『大きなこと』ができないぞ?」と叱られそうですけど、べつにぼくは、「大きなこと」がしたい、携わりたいと思ってないような気がします。
複雑な工業製品を作りたい、とも思わない。
※社会のだれかが「大きなこと」を成し遂げ、複雑な工業製品を作ることには価値があるし、購入していますが。
個人の力の及ばないところで、「関係各位の不都合なご事情」を忖度し、可もなく不可もない、微温的な最適解を見つけていく。
もしくは、自分と全然関係のないところまで先回りの先回りの先回りをして、手を差し伸べる。そんなとき、すごく苦労して救ってあげたのに、まったく顧みられない。むしろ、便乗されて、よく分からない期待が付加されていく(ように感じる)。
ぜんぜん、うまくやれないです。
これじゃあ、評価されるわけない(笑)
そして、病気として認定されていく、、
この記事を書いた理由
小さなテーマでいい。組織のロジックや「身の程」に縛られずに、納得がいくまで突き詰めたい。自己満足だろと言われても、別のかたちで社会に伝えていけたらいい。
三国志の研究に限らず、
ぼく1人が書いた記事を、どこかのだれか、顔も知らない1人の読者が読み、「ふうん、そういう考えもあるのね」「気が紛れた」、時には「参考になった」と思ってくれれば、それで十分なのです。1人が書き、1人の読者を獲得したなら、もう報酬は十分だと思います。
評価とか報酬とか、あんまり考えないんですよね。
メーカー系の会社員と大学院生。2つの異なる立場(身分?)を並行して行っていると感じます。「いつまでも」書けるタイプの記事ではないので、今のうちに連投しておきます。
「こんなやつ(社会不適合者)でも、生活が破綻し、経済的に破産することなく、それなりに楽しそうな人生を過ごしたようだ」というサンプルになれば幸いです。研究をがんばります。
ぼくは、「ひとをケアする仕事」の適性は全然ありませんが、この記事で恥をさらすことが、どこかのだれかの間接的にケア、行き詰まったひとの気休めになれば、って感じです。それがネットに載せる意味です。
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