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生まれながらに「研究」から疎外されている人々/機会の不平等

こんばんは。佐藤大朗(ひろお)です。
文系学問と「お金」の話をしていくnoteです。
今日は、ややグロテスクな話です。下品になります。ですが、きっと、誰かのご参考になるのではないかと思います。

この文の、「研究」のところは、皆さんのやりたいこと、希望する職種に置き換えて頂ければ、読みやすいと思います。

人間は、とても不平等です。
平等というのは、大きく分けて2種類あります。
機会の平等」は、だれでも挑戦のチャンスが与えられている。挑戦した結果、成功するひともいれば、失敗するひともいますけど、その結果までは保証していない(本人次第)というやつ。
他方、「結果の平等」というのもあります。こちらは、あまり納得感がなく、今日では強く主張するひとはいませんね。※20世紀のある時期、流行ったこともありました

そういうわけで、「機会の平等」というのが、だいたい日本社会で目指されているスローガン、目標です。
この考え方は、学校でも習います。基本的人権が~といった流れで教えられるのは、「機会の平等」みたいなことです。
しかし、当たり前ですけど、機会は、圧倒的に不平等です。

私の境遇に関していうならば、親族(とくに親)が、学校の先生でも、大学の研究者でもなければ、子供が職業研究者になれる可能性は、各段に低くなります。
機会の不平等です。
統計を取ったわけじゃないですけど(統計を探せば、ほぼこの仮説を支持するデータがあると確信していますが)、文系学問できちんと食っていくようになるためには、親の学歴が必要です。
なぜか。
親の学歴が低いと、研究者という道があり得ることを、そもそも知り得ないからです。現実味がないからです。
世間に、そういう生計の立て方をしているひとが存在する…というのは、マスコミ等を通じて、知らなくはないですよ。しかし、それを言うならば、火星人だって、超能力者だって、世間に存在しているらしい??ですが、自分がそれに当てはまることに、リアリティを感じられないんです。

研究者という生き方が、リアルな選択肢に含まれていない。すると、目指すという選択肢すら、持ち得ない。
挑戦する前から、除外されています。やっぱり、機会が不平等です。

ぼくの親は高卒だったので、研究者という生き方、いや、「研究」という営みそのものが、若いころ、ぼくが見ていた世界に含まれていませんでした。聞きかじったとしても、火星人とか未来人とか幽霊、タイムスリップや霊視といった、そういう存在だったわけです。

あるとき、ぼくが父親から言われ、親が子供の可能性をつぶす典型例だと思ったのが、「そういう職業は、そもそもこの世にはなかったんだよ」というものです。少なくとも、「俺たち」が選び得るものではないと。
もしかしたら父親は、そうやって現実と折り合いをつけてきたのかも知れませんが、そんなん、ぼくも同じように当てはまるとは、限らないんですけどね。親との距離の取り方、だいじですね。

幸い、テクノロジーの発展のおかげで、大学生のときに選び取らなくても、研究をするという可能性は、開かれています。現代に生まれてラッキーでした。勉強、がんばります!!

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